サメガイとの出会い
幼稚園のころ、「サメガイ」と聞くと「サメを飼っている」と思っていた。
「怖いところやなぁ。」
としか思わなかった。「昔のお公家さんか金持ちの道楽やな。言うこと聞かんやつ、サメに食わしとったんとちゃうやろか。」
現在、京都市にも水族館がありますが、子供のころ、一番近い水族館は兵庫県の須磨。「昔の人はどんな風にしてサメを飼っていたんやろか。ごっつい池に飼ってたんかな。何のために飼ってたんやろ。そういえば、鮫の皮は刀の柄に巻くて聞いたこともあるし、おろし金にも使ってたて聞いたことあるし、まあそんなもんか。」と足りない頭で考えてました。
「サメガイ」=「醒ヶ井」と分かったのが小学校高学年の時。
「ふ~ん。井て井戸か。すっぱい水やったんかな。」
「醒」を「酸」と間違ってました。
また「醒ヶ井」=「左女牛井」と知ったのが大学生のころ。
「は~ん。名水やったんか。なんで左女牛井が醒ヶ井になったんやろ。」
少しずつ、それなりの知識になってきたんだと実感しています。
京都の水
京都には名水と呼ばれる水がたくさんあります。ただ、地下水脈の変化で枯れてしまった名水も多いです。その一つが「左女牛井」です。「染井」「縣井」と並んで京都三大名水と呼ばれています。
残念ながら左女牛井も枯れてしまって久しく、堀川通りに碑と案内板しかありません。
左女牛井は源頼義(みなもとのよりよし)が建てた六条堀川館の中にありました。
義家、為義、義朝が住んでいましたが、平治の乱で平家に焼き払われてしまいます。その後、義経が再興し静御前と住んだそうです。
室町時代には南都の僧村田珠光がこの畔に住み茶道を興し足利義政も来遊したと書かれています。第二次大戦中に建物疎開で完全になくなってしまいました。
醒ヶ井通りを歩く
由緒ある左女牛井から名前が付けられた醒ヶ井通りを歩いてみます。
醒ヶ井通りの南の端、五条醒ヶ井に立っていますが、交差点としては「堀川五条」そのものです。ここから南は第二次世界大戦中に建物疎開を行い、醒ヶ井通りは拡幅された堀川通りに吸収されてしまいました。
五条通りより南側にも「醒ヶ井通」があった名残です。町名表示板はありませんが町名の「左女牛井町」は残っています。
逆に五条通の南に立ち、北を向きました。堀川通りから、家1軒分東側の通りが醒ヶ井通りです。
車1台が通れる細い通りです。
高辻通りの南にある住吉神社です。後白河天皇の勅旨により、和歌の守護神として、摂津国住吉大社より藤原俊成卿の邸宅に勧請された新住吉社を起源としています。
本殿です。横には柿本人麻呂を祀った人丸神社があります。
さらに北に向かって歩きます。
まだ、古い町並みが残っています。子供のころに遊びに行っていた友達の家はたいていこんな感じの家でした。
四条通に出ました。振り返ってみるとこんな風景です。マンションがたくさん建ってます。
四条通を渡って、北方向に醒ヶ井通りを見ると、目の前に建物があります。堀川高校の校舎です。堀川高校の敷地が醒ヶ井通りを分断してます。
醒ヶ井通りは豊臣秀吉による天正の地割で無理やり新設された通りですが、堀川高校に分断され(もとは藤堂和泉守殿だったので、元に戻ったと言えばそうなのですが)、強制疎開で堀川通りに吸収され、もののあわれを感じさせる通りです。
現代の「醒ヶ井」
おまけと言ってはなんですが、現代版の醒ヶ井を紹介しましょう。
場所は四条醒ヶ井の北側です。実は京菓子の亀屋良長さんが地下80メートルからくみ上げている現代の醒ヶ井です。
この水で、おいしい京菓子が作られています。
亀屋良長さんにはいろいろな銘菓がありますが、創業の昔から受け継がれてきた烏羽玉(うばたま)はお勧めです。つややかな色合いと黒砂糖を使ったこし餡は、お薄にとてもよく合います。
アクセス
佐女牛井之跡
- 京都市バス「堀川五条」下車、徒歩約3分