寺町・新京極
新京極通りは、平安京の一番東にあった京極大路(今の寺町通り)の東側に作られたので「新京極」という名前が付けられました。
新京極通りは、明治時代から東京の浅草、大阪の千日前と並ぶ、日本三大盛り場として有名です。今でも修学旅行生が大勢訪れる繁華街です。
四条通の方から新京極を歩いて参拝しました。
祇園祭でアーケードもお祭り気分満載です。
昔は何もなくて、路駐の自転車があふれていた六角通りとの交差点ですが、整備されて「ろっくんプラザ」と名前が付き、催事が行われたりしています。
矢田寺
そんな新京極の北の端が三条通りですが、そこから寺町通りを上がったところに「矢田地蔵尊」があります。正式には金剛山矢田寺という、西山浄土宗のお寺です。
商店街の中の一軒の店のようなたたずまいですが、中に入ると世界が変わります。
石碑と提灯です。
最初の建立に関しては不明なことが多いようです。
白鳳4年(700年)に天武・持統両天皇の勅願所として、奈良県大和郡山市にある矢田寺(あじさいの寺)の別院として建立されたという記述や、弘仁13年(822年)、承和12年(845年)と書かれている記述もあります。場所は五条坊門付近であったそうです。
応永24年(1417年)に焼失し、綾小路町尻(下京区矢田町)に移ります。さらに天正7年(1579年)、太閤さん(秀吉)の命令で、本能寺と一緒に現在の地に移されました。
矢田寺の鐘は、お盆にこの世に戻っていたご先祖様の精霊をあの世に送る、「送り鐘」として有名です。特に8月16日にはたくさんの人が鐘をつきに参られます。
これに対して、六道珍皇寺の鐘は精霊を迎えるために撞くので「迎え鐘」と呼ばれます。
光仁7年(816年)に日本で初めてつくられたとされる地蔵菩薩がご本尊のお寺です。このお地蔵様は代受苦(だいじゅく)地蔵とよばれます。
平安時代、死後の世界をつかさどる閻魔大王は、苦しみが世の中に蔓延しており、それが自身の災いとなっていたため、不安を抱いていました。そこで受戒(仏の定めた戒律を受けること)を決意し、閻魔庁第二冥官として裁判の補佐をしていた小野篁(おののたかむら)に相談します。篁は「受戒するには当代切っての僧侶、満慶上人がよい」と大和国・矢田寺の高僧・満慶上人を勧めます。
閻魔大王は使者を遣わし、満慶上人を迎えて悩みを打ち明けると、満慶上人は戒を授け、閻魔大王の心を癒しました。喜んだ閻魔大王がお礼をしたいというと、満慶上人は地獄を見たいと言います。閻魔大王が地獄の鉄扉を開けて案内しました。
そこにあったのは、燃え立つ炎で煮えたぎる鉄釜に、生前に悪業をはたらいた罪人たちが次々と落ちていく姿でした。ふと見上げると、一人の僧侶が鉄釜の中にいる罪人たちを助けています。その僧侶こそが地蔵菩薩でした。
地蔵菩薩は満慶上人に、自分は釈迦の教えに従い、衆生の苦しみを慈悲により救っているとい説明します。現世に戻ったら自分に似せた地蔵菩薩像を作って拝むことで、自分と縁を結び、地獄の衆生を救うようにと伝えます。現世に戻った満慶上人はその姿を写し、矢田寺の本尊にしたということです。
満慶上人は地獄から戻る際、閻魔大王からお土産に小箱(枡)を授かります。その中にはお米がいっぱい入っていたのですが、いくら取り出して食べても尽きることがなかったということから、満慶上人はのちに「満米(まんまい、まんべい)上人」と呼ばれるようになりました。
小野篁についてはこちらの記事をご覧ください
満慶上人が見た、地獄の鉄釜の中の罪人を助けている地蔵菩薩の絵馬です。
しあわせ大日如来です。
矢田寺では12月23日に「かぼちゃ供養」が行われます。当日は法要が行われた後、柔らかく煮た栗かぼちゃが無料で接待されます(数量限定なのでお早めに)。冬至の日にかぼちゃを食べると、風邪をひかない、中風除けになるといわれていますし、忙しい師走の時期にかぼちゃを食べて一息ついてほしいということで毎年行われています。
人々の苦しみを代わってくださる代受苦地蔵。良縁成就・安産祈願・無病息災などのご利益があり、かわいい手作りのお地蔵さんのお守りがある矢田地蔵尊にぜひともお参りください。
アクセス
- 京都市市バス「河原町三条」下車、徒歩3分
- 京都市市バス「河原町御池」下車、徒歩5分
- 京都市営地下鉄「京都市役所前」下車、徒歩3分