静かな街並みの中
今日は、平野國臣の墓がある、竹林寺を訪問します。
円町から北に信号一つ上がります。下立売通りを東に進むと、すぐに紙屋川にかかる橋が見えます。
橋の向こうの北側の並び、白っぽい塀が竹林寺です。
残念ながら、今日は解放されていなかったので中には入れませんでした。門の脇には「正四位平野國臣外三十餘士之墓」と石碑があります。
平野 国臣(ひらの くにおみ)は攘夷派志士として、討幕論を広めた人です。文久2年(1862年)、島津久光の上洛にあわせて挙兵をはかりますが寺田屋事件で失敗して投獄されます。出獄後の文久3年(1863年)に大和行幸を画策しますが、八月十八日の政変で挫折します。次に大和国での天誅組の挙兵に呼応する形で但馬国生野で挙兵(生野の変)しますが、またも失敗に終わり捕えられます。身柄は六角獄舎に預けられました。
元治元年(1864年)、禁門の変で長州藩は撤退する時に京都の町に火を放ちます。火災(どんどん焼け)は京都中に広く延焼し六角獄舎にも火が及びそうになります。囚人が脱走することを恐れた京都町奉行滝川具挙(たきがわともあき)は囚人の処刑を決断します。処分は未決状態ではあったのですが、国臣は他の37名の囚人とともに斬首されてしまいました。
我が胸の 燃ゆる思ひにくらぶれば 煙はうすし 桜島山
国臣の詠んだ歌ですが胸の内の燃え滾るような思いが伝わってきます。
明治10年(1877年)、西土手刑場跡から多数の白骨が見つかりました。姓名を朱書した瓦片も発見され、これらは平野国臣ら37人の未決囚の遺骨であることが判明し、竹林寺に埋葬され供養されました。
https://www.kyoto-inf.com/guide-kyoto/2017/09/07/posted-nishidotekeijoato/
山門からのぞくと、平野國臣らの墓が見えます。
早くから倒幕論を唱え、一浪人として何らの後ろ盾を持たず、独力で駆けめぐった活動はわずか7年で幕を閉じます。享年37、どんな状況に陥っても、自らの境遇を決してあきらめない人でした。
アクセス
- 京都市バス「西ノ京円町」下車、徒歩5分