一乗寺ってどこ?
冬本番の京都市内は、比叡おろしが吹いていて、とっても寒いです。
そんな冬の京都で、今一番盛り上がっているのは、何といってもラーメン。
そう、一乗寺(いちじょうじ)界隈のラーメンが熱いです。
昔、京都のラーメンと言えば、京都駅東にある第一旭ぐらいしか有名な店がありませんでした。でも、今は一乗寺界隈がラーメン激戦区として、たくさんの人が訪れています。
「ほんで、一乗寺ってどこなんや? 一乗寺っていうぐらいやから、寺でもあるんけ?」
と、疑問に思う方が多いと思います。
京都に住んでいる方でも、一乗寺の由来を知っている人は少ないのではないでしょうか。
現在の「一乗寺」と呼ばれる地域は、大まかですが、南北では京都造形芸術大学の北のあたりから、修学院離宮の少し南の辺り、東西では東大路通りあたりから山のふもとまでのけっこう広い地域です。
で、「一乗寺ってあるの?」
ありません。というか、昔はありましたが、現在はありません。
「太平記」によると、南北朝時代の建武2年(1335年)、南北朝の戦乱により、北朝方の細川軍が一帯に火を放ち、一乗寺も焼失してしまいます。その後、再建されず廃絶してしまいました。
とても広い地域が今でも「一乗寺」と呼ばれていることからすると、当時はとても力の強いお寺であったと思われます。その創建の詳細は不明なのですが、平安時代である10世紀の後半には既に存在していたようです。
見に行く
一乗寺の趾と思われるところがあるので、見に行きましょう。
これは、高野川と比叡山です。一乗寺は天台宗のお寺でした。『扶桑略記』『園城寺伝記』等によると、天元4年(981年)、山門(延暦寺)派と寺門(園城寺)派との対立により、難を逃れた園城寺別当の穆算(しゅうさん)という僧とその門徒がこの一乗寺に住んだという記述もあります。
さて、「曼殊院通り」を東に向かって歩いていきます。白川通りを過ぎると、道は上りになり、宮本武蔵と吉岡一門の決斗で有名な「一乗寺下り松」が見えてきます。
道はゆっくりと曲がって、北に進むので、道なりに歩いていきます。
しばらく歩くと目的地です。
ここは「修学院児童館」の隣にある「一乗寺集会所」です。
普通、観光客は足を止めませんよね。私も集会所に用事があって来たわけではないのですが…
集会所のアップです。わかりましたでしょうか。
そう、これです。よくわからないですか。
この石碑に用があってきたのですよ。
この石碑は「一乗寺址」と彫られた石碑です。一応Google Mapでも、出てくることは出てきます。武蔵の決斗場所の石碑は有名ですが、こちらはほとんど知られていません。
昭和34年(1959年)、この付近から一乗寺の礎石が発掘されました。礎石以外にも多数の地蔵や石仏が出土しています。ここに一乗寺があったことだろうということで現在の石碑が一乗寺集会所内に立てられました。でも、ここが一乗寺であったという確固たる証拠はありません。
一乗寺ってどこ?っていう人は、一度この石碑を見に来てください。ここから高野川付近までが一乗寺と呼ばれるぐらいですから、大きいお寺だったんですよ。
宮内少輔城址
さて、一乗寺集会所のもう少し北に、「ここも見落としてしまうだろうなぁ。」という史跡があります。
北に向かって歩いていると、道の右手(比叡山側)に上の画像の建物が確認できると思います。「宮内少輔城址(くないしょうゆうじょうあと)」とか「一乗寺渡辺城址」とか呼ばれる、平城の趾です。このあたりで権勢を誇った土豪の渡辺氏が城を構えていたところです。
残念ながら非公開ですので中は見られません。一乗寺や修学院の辺りは、南北朝から江戸初期の史跡がいろいろとあるので、歩いてみると面白いところですよ。
一乗寺のラーメン
一乗寺のラーメンと言えば、昔は「天天有(てんてんゆう)」ぐらいしかありませんでした。私が学生の頃は、一乗寺と言えば学生下宿がメインで、京都ではさびれた町だったので、わざわざ人が来るということがありませんでした。なので、「天天有」も並ばずとも温かいラーメンが食べられるところで、よくお世話になったものでした。
現在は変わりましたよね。ラーメン屋さんがいっぱい。すべてのラーメン屋さんを回ったわけではないのですが、「天天有」や「高安」は確かにおいしいです。その分、人いっぱいです。
そうそう、京都で有名な、こってりの「天一(天下一品)」も本店は一乗寺なんですよ。ちょっと場所は離れてますけど。
今、とっても熱いラーメンの激戦区、寒さを吹っ飛ばしてくれますので、一度訪れてみてください。
アクセス
- 京都市バス「一乗寺下り松」下車、徒歩10分