観光名所の総本山
平安京の以前の古代から、このあたりは、出雲氏一族の住む愛宕(おたぎ)郡出雲郷というところでした。相国寺建立以前、ここには功徳院神宮寺という浄土宗のお寺があり、浄土宗の開祖である法然上人も閼伽(あか)水に使った井戸(法然水)がありました。法然上人は、ここから加茂社に参詣しました。功徳院神宮寺は、「百万遍知恩寺」という名称になり、相国寺建立の時から移転を繰り返して現在の知恩寺となっています。
相国寺は足利義満の発願で建立されたお寺で、現在でも境内が4万坪もあるとっても大きなお寺です。京都観光で有名な、鹿苑寺(金閣寺)も慈照寺(銀閣寺)も、この相国寺の山外塔頭です。山外塔頭には観光客がどっと訪れますが、それに比較すると、総本山の方が観光客が少なくて静かです。
北朝の永徳2年(1382年)に建立され、正式名称は「万年山相国承天禅寺(しょうこくじょうてんぜんじ)」といいます。
最初の義満の建立時には、強引な立ち退きを庶民に強要したようで「ミヤコニハ、ヒノ木スギノ木ツキハテテ、ナゲキテツクル相国寺カナ」と詠われたといわれます。
今出川通りから上がって(北上して)くると、山門があります。
山門入ってすぐ左手に放生池(功徳池、蓮池)があります。カモがたくさん休憩中です。
放生池の天界橋。こちらにはサギが休憩中。
天界橋です。冬の日差しですが、温かそうです。
この放生池では、戦国時代、天文20年(1551年)の「相国寺の戦い」の時には、天界橋を挟んで細川晴元と三好長慶の軍が激突したそうです。かつて門前に池があり、橋が御所との境をなしていたため「天界」と言ったそうです。功徳池も、御所に接しているからの「功徳」池というのだそうです。
京都市内にはあちこちに戦火の跡があります。
天界橋を渡ったところから、本堂の方を見ます。手前の階段を上がったところに「三門」があったのですが、天明8年(1788年)、天明の大火で焼失してしまいその後は再建されていません。礎石のみ残っています。
「般若林」と言われるアカマツの林です。
本堂が見えてきました。この辺りにも、いろいろな建物があったようですが、天明の大火以降は何も建てられていません。
本堂前の参詣道です。
本堂と言ってますが「法堂(はっとう)(雷音堂、いまは無畏堂)」です。重要文化財に指定されています。最初の建物は室町時代、北朝 の明徳3年(1392年)に建立され、その後、建物は4度焼失して、5度再建されています。現在の建物は江戸時代、慶長10年(1605年)に豊臣秀頼が寄進したものです。現存する法堂としては日本最古のものだそうです。
法堂の鏡天井(高さ10.79m)には、狩野光信筆の「蟠(ばん)龍図」が描かれています。堂内で手を叩くと音が反響して「鳴き龍」といわれています。これを見学してみたいのですけどね。特別公開の時以外は公開されていません。人もあまりいなくて、ひっそりとしています。
光信最後の作品となった「蟠龍図」ですが見学の機会がなかなかないので残念です。春と秋には特別公開の時期がありますので、それに合わせて観光されてもいいと思います。
境内
いつも使っているコンデジが調子悪く、エラー表示が出るので、サブのコンデジで撮っているのですが、まだ慣れていないので、グローブが写ってしまいました。とってもお恥ずかしいです。
塔頭の「豊光寺」は特別公開中でした。見学したいのですが、お金がありませんので残念ながらここで写真を撮るぐらいです。
こちらも塔頭の「大光明寺」です。ここは一般公開してません。前から、ちらっとのみ。
「浴室」です。かけ湯をしながら入る蒸し風呂だそうです。
足利義満は「相国寺」建立の時に、春屋妙葩(しゅんおくみょう)禅師に、 寺号(寺の名称)を相談しました。春屋妙葩は、義満が左大臣の位にあることから、「中国では、これを相国という。開封には大相国寺という寺があるので、相国寺とつけてはどうか。」と進言しました。ここから「相国寺」という名前が付けられます。
平成4年11月、日中両相国寺友好寺院の締結調印が行われました。
「天響楼(てんきょうろう)」です。平成23年8月、中国の大相国寺より梵鐘が寄付されました。
足利義満が「石清水八幡宮(男山八幡宮)」からお迎えしたという「八幡宮」もあります。
きれいに手入れされています。創立当時は今出川通りの北にあって、現在の「御所八幡町」はその旧跡といわれてます。足利義満が「石清水八幡宮」からご神体を奉迎した時には「石清水八幡宮」からここまでの沿道に、ことごとくに白布を敷きつめたといわれています。
江戸時代の第108代、後水尾天皇の毛髪や歯を納めた「後水尾天皇髪歯塚」です。
「経蔵」は、相国寺120世、盈沖周整(えいちゅう しゅうせい)和尚の寄進により、江戸時代、 万延元年(1860年)に落成し、「高麗版一切経」が納められているそうです。
鐘楼
「鐘楼」は、江戸時代の天保15年(1844年)再建されました。「洪音楼(こうおんろう)」「袴腰付鐘楼」ともいわれ、花崗岩の壇の上に建っています。和様と唐様(禅宗様)の折衷様式であり、大型の建物としては有数のものだそうです。梵鐘は、江戸時代、寛永6年(1629年)に鋳造されたものです。
大きい建物です。
存在感ばっちり。立派なつくりですね。
近くで見て、ちょっと感動を覚えました。中に入ってみたいですね。
宗旦(そうたん)稲荷社
さて、こちらは少し庶民的な神社です。
「宗旦稲荷社」というこの神社は、「宗旦狐」という白狐を祀った神社です。
立派な「宗旦稲荷」の石碑もあります。
鳥居です。
本殿前です。
お詣りします。
ご由緒書きが薄くなってしまっているので、ちょっと読みづらいですね。
文政13年(1830年)に書かれた「喫茶余録」にこんな話があります。
安土・桃山時代~江戸時代の茶人、千宗旦(せんのそうたん:利休の孫)は「相国寺」塔頭の「慈照院」に茶室を建てました。披露の日、宗旦は用事があってお茶席の時間に遅れました。でも、茶室ではすでに客人が歓談している様子です。宗旦がお茶席が遅れたお詫びを入れると、来客は不審な顔をします。来客曰く、宗旦はすでに点前を済ませて、いま帰ったばかりだと。
その後も、同じようなことが二度三度と続きました。宗旦の弟子たちは宗旦に偽者がいると思い始めます。茶室に宗旦が現れたときを見計らい、弟子たちは宗旦本人が自宅にいることを確認した上で、その偽者の宗旦に問いただします。するとその茶人は、自分は相国寺境内の薮に住む白狐であって、日頃より宗旦宗匠の茶風に憧れ、その姿を借りて茶に親しんでいるのだといいます。白狐は狐の姿となって逃げ去りました。弟子たちは宗旦狐の腕前に感心し、宗旦狐を追うことはなかったそうです。
また、ある時、偽の宗旦は、宗旦本人の前で点前を披露し、その正体が露見してしまいます。しかし、宗旦は宗旦狐の見事な点前に感心し、以後許して可愛がったということだそうです。
その後の逸話もあります。
幕末になると、宗旦狐は雲水に化けて僧堂で修行をしました。他の雲水たちと共に座禅を組み、托鉢に回ります。この頃、僧堂の経営が成り立っておらず、宗旦狐は会計係に任じられ寺の財政難を建て直すべく力を尽くしたのだといいます。また、宗旦狐は、御所に度々出かけ、皆も狐であることを知っていたという。武者小路石井家には、庭に「宗旦狐腰掛石」があり、宗旦狐は囲碁が好きで夢中で碁を打っていると思わず尻尾が出たという。
お告げにより灸屋が繁盛したともいう。出町の豆腐店「丁字屋」(今出川通寺町東)が、宗旦狐のお告げにより経営が持ち直したともいう。主人は、狐が取ってきた蓮の葉を売って歩き、大豆を買って商売が続けられたという。
宗旦狐の最期にはいろいろな話があります。
老狐が死ぬ前日、門前の豆腐屋を挨拶に訪れ、豆腐屋の主人は好物の油揚げでもてなしたともいいます。ある時、狐は猟師に撃たれて死んだともいいます。油揚げを盗み、野犬に追いかけられ井戸に落ちて絶命したともいいます。豆腐屋がお礼に持参した(天井から落ちてきたものを誤って揚げた)鼠の天麩羅を食べ、宗旦狐は神通力を失い白狐となって、野犬に追われ、井戸に落ちて死んだともいいます。囲碁仲間の豆腐屋に騙されて、荒神橋で死んだともいいます。
どんな最期にせよ、人々は宗旦狐を手厚く葬りました。幕末に伏見稲荷大社から神位を受け、慰霊のために境内の社に祀られ「宗旦稲荷」となったそうです。
狐であるから、お揚げが出てくる、お豆腐屋さんと縁のある逸話が多いですね。出町のお豆腐屋さん「丁字屋」は少し前までは同名のお豆腐屋さんがあったのですが、現在はありません。残念。武者小路石井家にあった「宗旦狐腰掛石」は石井家が千葉県に引っ越しされたときに、一緒に運ばれたのですが、現在は福井県越前市の「毫摂寺」に寄進され、お庭にあるそうです。この辺の、逸話と現実が混ざったような感じが京都らしいですね。
弁財天社(芸能の神様)
「弁財天社」は、江戸時代、延宝4年(1676年)に、京都御苑内の久邇宮(くにのみや)邸に鎮守社として建立されました。明治13年(1880年)、宮家の東京移転に伴って、相国寺の荻野独園(おぎの どくおん)が朝彦親王の寄進を受けます。その後、明治18年(1885年)に現在地に遷されたました。平成9年(2007年)、京都府指定有形文化財に指定されています。
手水舎です。
鳥居前です。すんません、またグローブが映ってますね。それと、水平がずれてますね。
ご由緒書きです。
絵馬が飾られています。弁財さんであるのと、巳年の奉納なんですね。
本殿です。平成25年(2013年)に解体修理の後落成したということで、とてもきれいです。
芸能の神様として信仰されているので、習い事をされている方、ご利益にあずかれますよ。芸事の上達を祈願してご参詣ください。
境内の流水路
かつては賀茂川の流れから引いていた「今出川」の流れがあり、開山塔の前庭では「龍淵水(りゅうえんすい)」と呼ばれていました。
境内にも、流水路があります。
「今出川」は「相国寺」の中を流れていたのですが、昔の「東京極大路」、現在の「寺町通り」も流れていたそうです。このことから、「京極川」と呼ばれることもありました。
大正6年(1917年)の京都市電開設に伴う道路の拡幅工事のため地下水路となり姿を消しまったので、現在、川としての「今出川」はありませんが、通りの名前として「今出川通り」は残っています。
光源院
境内の東寄りにある塔頭の光源院です。
開門されており、拝観できるようなのでお邪魔しました。
山門に石碑があります。
手水鉢は使われていませんでした。
本堂です。
御本尊ですが、格子があるのでうまく撮影できませんね。
手水鉢の横に、井戸があります。
真っ暗で分からないのですが、水道管が見えるので、汲水できるのでしょう。吸い込まれるようで怖いです。
「相国寺」はとても広いお寺で、今回紹介していない、「承天閣美術館」や文化財がたくさんあります。散策してあちこち回るだけでも京都らしさを感じさせるお寺です。京都御苑を訪れたら、ぜひとも「相国寺」も訪れてください。
アクセス
- 京都市バス「同志社前」下車、徒歩3分