時代とともに文化は変遷する
二条殿はもともと藤原氏北家の二条良実が二条富小路の邸宅を二条殿と称していたのが由来で、後に押小路烏丸殿を指すようになりました。室町時代、和歌、連歌で有名な二条良基の邸宅でもありました。洛中洛外図屏風にも描かれていて、押小路殿とも呼ばれました。邸内には「龍躍池」というきれいな池があり,その景観の美しさから皇族や織田信長が好んだそうです。
信長は天正5年(1577)に移り住み,「二条新御所」を造営して、天正7年(1579年)に正親町(おおぎまち)天皇皇太子誠仁親王に献上しています。
しかし、天正10年(1582)の「本能寺の変」の際には信長の長男、信忠がこの地で自害し,二条殿は焼失してしまいた。
「二条殿址」の石碑は、烏丸通りの一本西側にある「両替町通り」にあります。
御池通りの「両替町通り」の案内板です。お池通りは京都市役所の前の通りだけあって、立派な案内板が立ってるんですよ。
「両替町通り」なんのことはない、細い道です。「両替町通り」を上がり(北上し)ます。
すぐ目に付くのが、「此附近 徳川時代銀座遺址」という石碑です。この「両替町通り」は天正18年(1590年)に豊臣秀吉の「天正の地割」で作られた通りですが、江戸時代に金座、銀座が置かれて「両替町」という町名が付き、通りも「両替町通り」となったようです。
ここから、もっと上がっていきます。
すぐに、ど~ん、とでっかい建物です。
ここは現在「京都国際マンガミュージアム」となっている、元「龍池小学校」の跡地です。小学校の入り口はこちらだったのかもしれませんが「京都国際マンガミュージアム」の裏側です。
その、裏側の門の隅に「此附近 二条殿址」の石碑があります。隅っこの方でかわいそうですね。
「京都国際マンガミュージアム」は「龍池小学校」の跡地だと書きましたが、「龍池小学校」という名前は、「二条殿」にあった、「龍躍池」からきているそうです。
とっても美しい池がある庭園だったとかで、焼失してしまったのが残念です。この「龍躍池」に関しては、もう一つ石碑があるとかで、こちらも訪れてみます。
アクセス
- 京都市バス「烏丸御池」下車、徒歩2分
- 京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩2分