東三条院址 藤原御殿と鵺の森

 朝廷と藤原氏

平安時代、藤原氏出身の女子で皇妃、母后となった人が居住する慣わしとなっていた「東三条院」というところがありました。

はじめ醍醐天皇皇子重明(しげあきら)親王の邸であったのですが、平安時代初期に摂政・藤原良房(よしふさ)が譲り受けた後は、藤原氏の邸として代々引き継がれます。建物は平安京の貴族邸宅である「寝殿造り」で、「藤原兼家(かねいえ:東三条殿と称した)」の時に最も大きくなりました。

藤原兼家の姉娘「超子」は「冷泉(れいぜい)天皇」の女御(にょうご)となって「三条天皇」を、妹娘「詮子」は「圓融天皇」の女御となって「一条天皇」を、それぞれここで産んでいます。詮子は一条天皇の即位後、皇太后となって出家し、「東三条院」と称しました。

このことより、この邸を「東三条殿」とか「東三条院」と呼ぶようになりました。

では、「東三条院址」に行きます。

東三条院址 No2

「東三条院址」の近くに、仁丹の住所表示がありました。

東三条院址 No3

「東三条院址」の石碑が立っているのは、「押小路通り」の釜座角です。

東三条院址 No4

「東三条院」はこの石碑辺りを中心として平安京左京の三条(二条大路南側)にあり、現在で言う、二条通り、御池通り、新町通り、西洞院通りに囲まれた東西約130メートル、南北約280メートルに及ぶ細長い邸宅でした。

東三条院址 No5

「東三条院」の邸内は栄華を極め、天皇の行幸を仰ぎ、庭内の池に竜頭船を浮べて、公家の遊宴が盛んに行われたそうです。

東三条院址 No6

「東三条院」は、保元元年 (1156年)に起こった「保元の乱」では、後白河天皇側が接取して立て篭もりました。「東三条院」は安元3年(1177年)に火災で焼失してしまいます。

東三条院址 No7

駒札が建てられています。

「東三条の森」と源頼政の鵺(ぬえ)退治

さて、藤原氏の邸宅であった「東三条院」ですが、歴史では面白いところに出てきます。

それは、平安時代末期の「二条天皇」の時のことです。毎晩のように「東三条の森」より黒煙が湧き立ち、黒雲となって清涼殿(天皇の住む御所)の上空にたなびき、それと共に不気味な鳴き声が響き渡るという怪奇現象が起こりました。二条天皇(※)がこれに恐怖し、ついに天皇は病の身となってしまい、薬や祈祷をもってしても効果がありません。

※・・・近衛天皇、後白河天皇、鳥羽天皇と史料によって記述が異なります。

この黒雲は、伝説の生き物である「鵺」の仕業であったのですが、これを「源頼政(みなもとのよりまさ)」が、家来の猪早太(いの はやた)とともに退治します。

この黒雲の立ち上る場所である「東三条の森」ですが、これが、この「東三条院」の森であったといわれる説と、藤原兼家邸であった「東三条殿(現:東山三条近くの大将軍神社)」であったという説があります。

まぁ、伝説なのでどちらでもいいのかもしれませんが、どちらも「藤原家」の邸宅であったということが面白いですね。藤原家の森から黒雲が立ち上って天皇を病気にし、源家がこれを退治するというなんとも戯曲になりそうな話です。

https://www.kyoto-inf.com/guide-kyoto/2017/08/10/posted-nuedaimyojin/

東三条院址 No8

「東三条院址」から西の方を見ると、「二条城」の壁が見えています。何のことはない、京都の生活の場面が見えています。

京都市内には、石碑だけになってしまっているのですけれども、とても面白い史跡や旧跡があります。駒札が建てられていることも多いので、ちょっと読んでみて、興味があればスマホなんかで検索してみてください。なかなか楽しいですよ。

アクセス

  • 京都市バス「二条城前」下車、徒歩5分
  • 京都市営地下鉄「二条城前」下車、徒歩5分

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