またまた藤原氏の邸宅
今までに、藤原氏の邸宅跡はいくつか紹介してきましたが、またまた藤原氏の邸宅です。
栄華を誇ったとはいえ、これだけたくさんの邸宅跡が残るとは…
今回紹介するのは「閑院(かんいん)址」です。
平安時代から鎌倉時代の初期にかけて藤原氏の邸があった所で、当初は藤原冬嗣(ふゆつぐ)の邸でした。
上の画像は、現在の「押小路通り」と「小川通り」の交差点ですが、ここから北西に当る「西洞院通り」、「押小路通り」、「油小路通り」、「二条通り」に囲まれた地域が、藤原冬嗣(ふゆつぐ)の邸宅でした。11世紀の初期に藤原公季(きんすえ)が伝領してから「閑院」と呼びました。
藤原公季は、平安時代中期の公卿で、官位は従一位、太政大臣、贈正一位となり、「閑院大臣」と呼ばれました。公季は藤原道長執政下において、内大臣に就任し、道長政権を支えた人です。娘茂子が生んだ皇子が「白河天皇」として即位し、以後、院政期には閑院家の女子所生の皇子から多数の天皇(鳥羽・崇徳・後白河)が出たことから、公季の子孫は栄え、「摂関流」に継ぐ地位を占めることになります。公季の子孫は閑院(家)流と呼ばれます。
「閑院」の庭内には泉が湧き,その静寂閑雅な風情から「閑院」と名付けたと考えられています。
この石碑が建てられているところには「西福寺」というお寺があります。
大正4年(1915年)に建てられた石碑ですね。
近くに「閑院址」の駒札もあるのですが、ちょっと読みづらいですよ。
高倉天皇の時代には大内裏(だいだいり)が甚しく荒廃したために、「閑院」が里内裏(さとだいり)として利用され、後鳥羽天皇もここで皇位を承継されるなど朝廷の中心となったところでもあります。その後、後深草天皇に至る9代90余年の間、里内裏になってましたが、正元元年(1259年)5月に火災で焼失してしまいました。
閑院の南殿にて月前松を詠める
いまはまた世々をかさぬる庭の花 ふりてぞみゆる秋の夜の露
~順徳天皇~
とても良い庭があったのでしょう。
アクセス
- 京都市バス「二条城前」下車、徒歩4分
- 京都市営地下鉄「二条城前」下車、徒歩3分