何かの縁
先日、京都市内を歩いているときに、たまたま石碑を見つけました。スマホを持っていない私は、その場で調べることができません。で、写真を撮ってウキウキして帰宅。なんだろなと、いろいろと調べてみると、圓山応挙の画風に似た日本画家の「森寛斎(もりかんさい)」の石碑でした。「圓山派」の画家なので「似た」と言っては大変失礼なのですが、私にとっては貴重な発見です。
「森寛斎」って知らない人が多いと思います。
当然私も知りませんでした。ネットで調べてみて、描かれた絵の画像がとっても気に入り、写真を撮ってきてよかったと思っています。
前を通ってピンと来たのは何かの縁でしょうかね。
討幕運動にも参加した日本画家
「森寛斎」は長州生まれの、江戸時代末から明治にかけての日本画家です。
寛斎は、晩年の円山応挙の弟子となって、応挙十哲に数えられる「森徹山」に師事し、円山派の画法を学びました。私は「圓山応挙」の絵がとても好きです。写実的なのですが、柔らかいまろやかな印象の日本画で、日本の景色っていいなと感じさせる絵です。なので、この「森寛斎」の絵に出会えたのは私にとっては、とても良い発見でした。
明治になってから、寛斎は京都画壇の研究団であるに「如雲社」に参加し京都画壇の中心的存在となります。明治13年(1880年)「京都府画学校(現在の京都市立芸術大学)」設立に伴って出仕となり、2年後には画学講座を担当しています。そして明治23年(1890年)には「帝室技芸員」を拝命しています。
そんな森寛斎ですが、幕末には長州と京都を行き来して、倒幕運動にも参加しています。第3代京都府知事の「北垣国道」は「生野の変」後に長州に潜伏中、間諜と間違えられ首を刎ねられそうになりました。しかし、たまたま通りがかった寛斎の取り成しによって生き延びたという史実があります。
森寛斎は京都市中京区室町通り二条下るに住み、その地で生涯を終えています。
「御池通り」の室町角から上がり(北上し)ます。
どんどこ歩いていくと、「二条通り」の少し手前の東側の並びに石碑が立っています。
絵師としての身分や表向き徹山の実子だったのを隠れ蓑に、自宅を勤王志士たちの密会の場にしたそうです。寛斎自身も京都の様子を伝えるため、何度も長州と京都を往復し、一時は新撰組からも命を狙われたそうです。
この辺りの町名は「蛸薬師(たこやくし)町」というのですが、「蛸薬師」については逸話がありますので、またいつかの機会に紹介しましょう。
住所表示では「押小路上がる」となっていますが、「二条下る」でも同じです。京都の地名はややこしいですね。
「森寛斎」は明治27年(1894年)前年に患った肺炎が再発し、この自宅で亡くなります。享年81でした。この「森寛斎宅蹟」の石碑は寛斎に師事した「山元春挙」等の寄附で建立されたものです。
京都市内を歩いていると、あちこちに石碑があり、思わぬ出会いがあるので楽しいです。
アクセス
- 京都市バス「烏丸御池」下車、徒歩3分
- 京都市営地下鉄「烏丸御池」下車、徒歩3分