史跡 妙顕寺城
京都市中京区の二条城に近いところに「妙顕寺城跡」の石碑があります。
「妙顕寺城」というのは、豊臣秀吉が入洛した時に宿舎にしたところです。
この地には元々は「妙顕寺」という、鎌倉後期の元亨元年(1321年)に、日像(にちぞう)がはじめて京都に建立した日蓮宗寺院がありました。日像は第96代・後醍醐天皇より御溝傍今小路に寺領を賜り、京都初の日蓮宗道場として建立したのですが、寺地は時代とともに各所に移されており、戦国時代にはここにありました。
天正11年(1583年)9月、豊臣秀吉は「妙顕寺」を小川寺ノ内に移転させて、そのあとに二条新邸(妙顕寺城)を構築しました。
「妙顕寺城」は周囲に堀が巡らされて、天主閣も築かれており城郭としての機能を備えていたとみられています。豊臣政権五奉行の1人になる「前田玄以」が居住して京都の政務にあたり、秀吉が上洛すると、ここが宿舎となりました。豊臣秀吉が次第に天下を握ってゆく間の、重要な政治の拠点で、豊臣秀吉が天正14年、この城の少し北側に「聚楽第」を造るまで、京都の政庁としました。
江戸時代、「妙顕寺城」跡地に牢屋敷が建てられましたが、宝永5年(1708年)、「宝永の大火」により焼失し、牢屋敷は「六角獄舎」に移されています。
現在は、「古城町」という町名と、この石碑だけが残っているのみで、遺構などは何もありません。
石碑が立っているのは「西福寺」というお寺の前です。「西福寺」は通常非公開です。
石碑と駒札が2つ建てられています。実は、小さい方の駒札が「妙顕寺城跡」の駒札で、大きい方の駒札は「閑院址」の駒札です。駒札の大きさで判断してはいけませんが、「閑院址」の方が歴史的には重要とみられているのでしょうね。
石碑は新しそうできれいです。
「妙顕寺城跡」の駒札です。
西を見ると、二条城の「東南隅櫓」が見えています。
古代から歴史を見てみると、京都市内にはいろいろな歴史上の出来事が起こった場所や建物がありましたが、応仁の乱をはじめ、数々の大火や都市整備で多くの史跡旧跡が失われてしまっています。現在、ビルなどを建築するときには遺構の調査をしてからでないと建てられないところが多く、時間がかかることから問題になっています。遺構の調査をするプロを育てるにはとても時間がかかるそうで、そうそう人数を増やすことができないらしいです。
アクセス
- 京都市バス「二条城前」下車、徒歩5分
- 京都市営地下鉄「二条城前」下車、徒歩4分