現代で言えば江戸幕府西日本出張所
昨日の続きで、「竹内式部」を取り調べた、「京都所司代」跡を見に行きます。場所はかつて「竹内式部寓居跡」の石碑があった丸太町通りの麩屋町から西に1㎞少々の丸太町通り猪熊です。
歴史を見ると、この「京都所司代」は室町幕府の侍所(さむらいどころ)に始まり、永禄11年(1568年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがあります。一般的には「京都所司代」というと江戸時代に設置されていた方を指すようです。
江戸時代の「京都所司代」は「関ケ原の戦い」の直後の慶長6年(1601年)に設置され、京都の制圧、朝廷・公家の監視、京都諸役人の統率、近畿8カ国(五畿内及び近江、丹波、播磨)の訴訟処理、西国諸大名の動向監視などの強権を持ち、江戸幕府の老中につぐ西日本支配のための重要役職でした。
「京都所司代」は二条城の北側一帯の広大な敷地を持ち,上屋敷・堀川屋敷・千本屋敷などからなっていました。今回訪れるのは「京都所司代上屋敷跡」です。
江戸幕府内で西日本ににらみを利かしていた「京都所司代」ですが、「京都町奉行」ができてからは、老中への出世の通過点となとなり、政治力が衰えてしまいます。文久2年(1862年)「京都守護職」の新設で、その管轄下に属し、王政復古により廃止されました。
宝暦8年(1758年)の「宝暦事件」で「関白一条道香」が京都所司代に「竹内式部」を告訴した時にはまだまだ強権を持っていたころですね。
「京都所司代」の跡地には、明治3年(1870年)、わが国最初の中学校である京都府立京都第一中学校が建てられました。
「京都所司代」の敷地には、現在は京都市立「待賢小学校・幼稚園」があります。これも読めませんよね。「たいけん」と読みます。上の画像右側の通りが丸太町通りです。
左に続く道が「猪熊通り」です。こちらは歩道がきれいに整備されています。
細い道なので、車がスピードを出さないように、クランク状になっているところがあります。
「京都所司代上屋敷跡」の石票は「待賢小学校」の敷地内にあります。
「京都所司代」の石票です。
「京都所司代上屋敷跡」の駒札です。
「京都所司代」の跡には、日本で最初の中学校に当たる「京都府立京都第一中学校」が建てられましたが、明治天皇も行幸されています。京都は教育においても先進的だったんですね。
南を見ると、すぐそこに二条城のお堀と白壁が見えています。
もう一つの石票
「待賢小学校」の東側(猪熊通り)にある石票を見ましたが、もう一つ石票があります。
丸太町通り沿い(待賢小学校の北側の壁)にも石碑があります。上の画像でわかりますか。
なんとまぁ、心憎いばかりの配慮です。
「所司代屋敷址」の古い石票ですが、壁を作るときに後世に残すように配慮されていますね。
京都で歴史の事件を追っていくと、石票だけですが史跡が残っていることが多いので面白いです。学生の頃に興味を持っていたらもっと歴史の点が良かったかもしれませんね。
アクセス
- 京都市バス「堀川丸太町」下車、徒歩1分