山科の疎水分水
琵琶湖からの疎水は東山や左京の方に引かれているものが有名ですが、山科の方にも分水があります。京都市内から、日ノ岡峠(三条通り)や渋谷峠(五条通り)を越えた地域は、昔から水利に乏しく干ばつに苦しんできたと言う歴史があります。
特に宇治郡山科村の西北にある五つの大字(日岡・北花山・上花山・川田・西野山)は潅漑用の水に乏しく、長い間苦しんできました。時の山科村長「柳田謙三」と各字の水利委員は,明治23年(1890年)に完成したばかりの琵琶湖疏水・第一疏水の日ノ岡で分水するために長さ3,000間(約5.4㎞)の水路を開くことを計画し,明治24年(1891年)に着工し翌年竣工しました。この功績を記念するために「北花山水路記念碑」が建てられました。
「北花山水路記念碑」は、旧東山トンネル(花山洞)から、下の集落(北花山)に降りていくと道沿いにあります。
滝井孝作の小説『結婚まで』(昭和2年)には、北花山辺りの当時の風景が描かれています。
森の中から出て、ずっと下り坂路で足許は下って居た。岨路(そばみち)に日が射した。稚児ヶ淵と云ふ潴水池(ちょすいち)二ツの傍を通った。(中略)すぐ路は広い往来に合はさった。『花山洞』のトンネルを出た往来だった。駄菓子置いた茶店、牛車、行商人など、急に鄙びた風物だった。往来から手の下には、山科の村里が點々(てんてん)と指された。
滝井孝作の小説「結婚まで」より
現在、花山洞からの道は日ノ岡方面への抜け道のようにも使われますが、昔の旧道であるので、曲がりくねって狭いです。新東山トンネルができて、国道1号線が南の方に曲がってできるまでは通行量の多い道だったと思われます。
さて、その道を下っていると、一瞬気づきませんでした。住宅街の中です。石碑の前の道路の勾配がけっこう急なのがわかると思います。
「北花山水路記念碑」です。
ちょっと読めませんので京都市のホームページから引用させてもらいます。
北花山水路紀念碑 碑文の大意
山科村の西北地区は山に囲まれている。そのふもとに日岡・北花山・上花山・川田・西野山の五つの集落がある。どこも水に乏しく,雨の少ない年には作物が枯れてしまい,農民は困窮に迫られることが五年に一度はあった。
山科村長柳田謙三はこのことを心配し,水利委員谷川久左衛門・長澤権右衛門・ 松井辨右衛門・松井繁之丞・前田久左衛門・枡田磯吉・柳生藤次郎・田中一郎・進藤繁三郎・篠田平四郎と相談し,5キロ以上にわたる水路を開いて山の谷水(実は琵琶湖疏水からの分水)を潅漑用水として使うことを計画した。明治24年7月から工事を始め,翌年12月に竣工した。工期550日,従事者のべ15,000人にのぼる大工事であった。 この水路により地域のやせた田は豊かな田に変わり,日照りに苦しんだことは昔ばなしになったのである。工事が成功したのは地勢によることも大きいが,やはり計画を立てた諸氏の偉大な力によるものである。五地区の有志はこの工事の記念碑を建てようと思い,わあし(筆者頼潔)に碑文を依頼した。そこで永く功績が伝わるように事の顛末を記す次第である
京都市のホームページより
と書かれているそうです。
昔は「渋谷街道」で人の往来も多かった地区ですが、長い間、水に悩まされてきた地域でもありました。現在でも北花山水路は灌漑用水として大いに利用されています。
アクセス
- 京阪バス「北花山」下車、徒歩2分