何も残ってません、石票も
「六勝寺跡巡り」の5番目は「最勝寺跡」です。
「最勝寺」は鳥羽天皇の御願寺で、元永元年(1118年)に落慶供養が行われ,一町四方の敷地には様々な堂舎が建てられました。「最勝寺」は六勝寺の中では3番目に建てられたお寺で、創建後たびたび災難に遭っており、そのつど修復が行われました。しかし14世紀初めの大火災で焼失して以降衰退し,応仁の乱の時に廃絶しました。
「鳥羽天皇」は堀河天皇の皇子で、生後間もなく母・藤原苡子(ふじわらのいし)が亡くなり、祖父の白河法皇の下に引き取られて養育されました。誕生から7ヶ月で立太子され、父・堀河天皇が29歳の若さで亡くなると、その死後、5歳で即位させられています。
当然5歳では政務を執る事ができず、また当時の摂関の藤原忠実は立場が弱く白河法皇の風下にあり、実際の政務は白河法皇が執ることになり、白河法皇による院政が完成するに至ります。永久5年(1117年)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内し、翌年には中宮となって5男2女を儲けます。鳥羽天皇は保安4年(1123年)第一皇子・崇徳天皇に譲位しますが、その後も実権は白河法皇が握り続けました。
白河法皇崩御の後、大治4年(1129年)より自ら院政を敷きます。璋子(待賢門院)との関係は上手くはいってなく、白河法皇を後ろ盾に続いた夫婦関係で、白河法皇が亡くなるとその関係は崩れ去り、鳥羽天皇は藤原得子(美福門院)を寵愛し体仁親王(近衛天皇)が生まれます。
永治元年(1141年)、23歳の崇徳天皇を譲位させ、得子の皇子である体仁親王を3歳で近衛天皇として即位させます。康治元年(1142年)には東大寺戒壇院で受戒し法皇となってます。久寿2年(1155年)に近衛天皇が崩御すると、今度は第四皇子で崇徳上皇の同母弟である雅仁親王を「後白河天皇」として即位させます。これにより崇徳上皇が院政を敷く可能性は失われ、崩御の直後に保元の乱が勃発する原因をとなりました。
「最勝寺」があったと推定されるのは「ロームシアター京都」の建物のすぐ東側から岡崎公園グランドにかけての「神宮道」の左右にまたがるところです。
三条通りから神宮道を上がって(北上して)くると、大鳥居を超えて、上の画像のように車道はどん突きとなります。以前はここも「神宮道」であって、車が平安神宮の真ん前まで通れたのですが、近年改修されて参詣道となりました。「岡崎プロムナード」と呼ばれています。
以前は道の両側に、タクシーや営業車が数珠つなぎに駐車していてあまり見てくれの良い光景ではなかったです。現在は広々としたスペースとなり、催し物やフリーマーケットが開かれたりしています。
春になると桜がきれいで観光客がたくさん訪れる場所です。このあたりが、まさに「最勝寺」があった場所です。神宮道の改修の時に、「最勝寺」の発掘調査が行われるかと楽しみにしていたのですが、結局は何も行われなかったようですね。
「岡崎公園グランド」の碑です。平安神宮の楼門が見えてますね。
神宮道であった参詣道の東側がグランドになっています。グランドが野球などで利用されない日には、芝生に入ることが出来るようなってるんですよ。
グランドから、その東側にあるテニスコートに「鵺塚(ぬえづか)」という、源頼政が仕留めた「鵺」が葬られたという伝説の四角い塚があったのですが、発掘の結果、古墳時代の古墳であることがわかりました。昭和31年に撤去され、そのときに出土した遺物は、月輪南陵(東山区)の域内に「鵺塚陵墓参考地出土遺物埋納所」として再埋納されています。
グランドの南西角に近いところに案内板があります。
「二条大路北側築地塀跡」の説明版ですがほぼ消えかかっていてよくわかりません。岡崎グランド駐車場建設に先立って、平成3年(1991年)から行われた発掘調査で検出された二条大路北側の東西築地塀基礎部分を説明しているそうです。
「最勝寺」とは関係ありませんが、説明版のすぐ後ろ辺りにあった灯籠です。
「最勝寺」は金堂・薬師堂・五大堂・南大門などの堂宇があり、方1町規模の寺院であったそうです。その全貌は今後の発掘を待たないと不明です。以前は「最勝寺跡」の石票も存在したのですが、現在は行方不明のままです。残念。
アクセス
- 京都市バス「岡崎公園 ロームシアター京都前」下車、すぐ