六所神社(上花山旭町) 悲哀の山科郷士隊

 もう一つの山科 六所神社

先日、山科区北花山にある「六所神社」を取り上げましたが、今回は同じ山科区の上花山旭町にある「六所神社」に参詣します。

実は、場所もけっこう近いんですよ。

上花山の「六所神社」は、天文12年(1543年)、地域の有力者であった「比留田」氏によって上花山村一帯の氏神社として創建されたそうです。

比留田氏と言えば「山科郷士」の「比留田権藤太(ひるたごんのとうた)」が有名です。

京都の周辺には朝廷の所領が多いため,天皇家や公家と結びつきが強く,苗字帯刀を許された「郷士」が存在しており,特に幕末期や戊辰戦争中の活動がよく知られています。

京都の「郷士」で有名なのは「山科郷士」と「山国(やまぐに)郷士」です。

「山科郷士」は慶応3年(1867年)に「山科隊」の結成が認められ,御所の警衛や市内各所の警備を行いました。戊辰戦争中は東山道鎮撫総督の「岩倉具定(ともさだ)」の付属とされ,後に函館の五稜郭の戦いにまで従軍した者もいます。

もう一つの「山国郷士」は,慶応4年(1868年)に丹波国桑田郡山国郷(現:京都市右京区京北)で山国隊を結成し,明治2年(1869年)まで北関東から仙台で戦闘に参加しました。毎年10月22日に行われる「時代祭」では,山国隊に扮した維新勤王隊列の鼓笛隊が行列を先導します。

「山科隊」は時代まつりに出ないの?

そう、それが「山科郷士」の悲哀の運命の結果なのです。

六所神社_南 No2

国道1号線「新大石道」の交差点です。ここから南に行けば「清水焼団地」に入ります。

六所神社_南 No3

天下の一桁国道なので、一日中交通量が多いです。

六所神社_南 No4

「新大石道」の交差点から少し北に行ったところ(京都市内側)に上花山の「六所神社」があります。国道1号線沿いに白壁と看板が立っているのでその下まで行きましたが、入り口が見当たりませんでした。手前の道を山手の方に入らないといけないようでした。戻ります。

六所神社_南 No5

ありましたよ。上花山の「六所神社」入り口です。

六所神社_南 No6

入り口横にあるご祭神やご由緒書きの石碑です。

ご由緒書きなどの参考になるものはこれだけでした。ご祭神は「熊野大神・稲荷大神・松尾大神・日吉大神・八幡大神・客人大神」の六柱ですね。確かに「六所神社」です。

石碑には

天文十二年(一五四三年)、当時の有力者であった比留田氏により地域の守り神として創建され、爾来、上花山住民の安寧の拠り所として尊崇される。
昭和四十七年には上花山水利組合をはじめ氏子や篤志家の浄財により本殿を再建、併せて祝詞舎及び社務所を新築。
昭和五十五年には氏子崇敬者の尽力により、末社新築、社務所増築、境内整備を成し遂げる。

と書かれています。

六所神社_南 No7

「六所神社」の石碑です。

六所神社_南 No8

一の鳥居の神額です。国道1号線の近くだからでしょうか、けっこう古さというか、汚れがにじみ出ていますね。

六所神社_南 No9

参詣道が続いています。

六所神社_南 No10

社務所です。

六所神社_南 No11

拝殿まで来ました。

六所神社_南 No12

その横には手水舎があります。

六所神社_南 No13

本殿です。

六所神社_南 No17

本殿横にあった、ご神灯の提灯です。

六所神社_南 No14

本殿です。きれいに手入れがなされています。

六所神社_南 No15

こちらの神額は、雨にさらされないので、まだきれいですね。

六所神社_南 No16

御神体を直接は拝めませんでした。

「比留田権藤太」は山科17ヵ村を束ねる頭目「総触頭(そうふれがしら)」であり、幕末の郷士「山科隊」160名の隊長として活躍しました。京都では御所の警護にあたり、明治元年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは宮中警固などを務め、東京遷幸には、守衛士隊取締を務めています。「山科隊」は五稜郭の戦いにも参加しているのですが、「山科隊」が使った総軍費約700両のうち、朝廷からの手当はわずかに17両。「山科郷士」と農民たちは、人と費用を自分達で負担して「新しい日本」の実現に貢献したのです。

しかし「山科郷士」の間からは誰一人として明治政府の役人にとりたてられず、追い打ちをかけて「山科隊」の解散命令が明治政府から出されます。

「比留田権藤太」は山科郷士30人連名の嘆願書を携えて上京し、岩倉具視等に「山科郷士」の窮状と要望を訴えます。嘆願書には「従前のように朝廷に御膳米や諸上納をいたしたいので、東京の近くに然るべき土地を頂き開墾を行いたい」と願っていました。この嘆願は明治5年(1872年)にやっと叶えられるのですが、与えられたのは希望していたよりもとても少ない10町4反歩で、明治6年(1873年)に上京したのですが、行ってみると見るも無残な荒れ地で、開墾は思うように進まず、苦労を重ねるものの、結局はは失敗に終わってしまいます。

明治9年(1876年)には、千葉県千葉郡の入会地31町歩が払い下げられたのを機に、東京の土地を売却して、それを千葉県の開墾に集中します。この土地を「東山科村」と名付けました。この土地も農業には向かない土地で結局開墾は行き詰まり、「東山科村」も維持することができなくなり、故郷の山科に帰ります。当然故郷の土地の多くも軍費として売り払っていますので、わずかばかりの土地で生活しなければなりませんでした。そして明治15年(1882年)上花山の自宅で55歳で亡くなります。

私財をなげうって新天地「東山科村」建設に奮闘したにもかかわらず、新政府に裏切られて悲哀の人生を終えた「比留田権藤太」。明治28年(1895年)に「建都1100年祭」の取り組みがあり「時代祭」が計画されました。当初の行列には先頭の「維新勤王隊」は入っていませんでした。しかし船井郡・北桑田郡が猛烈に抗議して、「山国隊」も行列に加えることになりました。一方の「山科隊」は元隊長であった比留田権藤太は既に没しており、「東山科村」建設の挫折によって、山科郷士の土地・家屋はなく、影響力も急速に失っていたので行列への参加を強く主張し、運動できる勢力は残っていませんでした。

六所神社_南 No18

比留田権藤太の思いがわかれば「大願成就」の絵馬が似つかわしいですね。

六所神社_南 No19

御神木のようですが、枯れていますね。

六所神社_南 No20

末社の「愛宕大神」です。

「東山科村」の地名は、現在でも「千葉県千葉市緑区東山科町」として残っています。そして「東山科金刀比羅神社」には「比留田権藤太」の石碑があるそうです。

北花山にある「六所神社」とこの上花山の「六所神社」になにか関係性があるのかと思って楽しみにしていたのですが、全然関係がないみたいですね。ちょっと残念です。でも、ほんとに近い場所にあるので、「花山」の地域での対抗心みたいなのがあったのかもしれませんよ。

アクセス

  • 京阪バス「上花山久保町」下車、徒歩3分

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