そう簡単に手には入らない…
少し前に「六勝寺跡巡り」として、「勝」の付く六つのお寺跡を巡りましたが、同時代「勝」の付かないお寺も岡崎に建立されています。「六勝寺」は隣り合わせのように固まってありましたが、そのまたお隣にあった「得長寿院」跡に行ってみます。
「六勝寺跡巡り その5」で巡った「最勝寺」も鳥羽天皇の御願寺でしたが、この「得長寿院」も平安時代末期の天承2年(1132年)鳥羽上皇の御願寺として創建されました。
平忠盛がこの寺に「観音堂」を造営して寄進しています。三十三間の観音堂には十一面観音や等身聖観音千体が安置され,現存する「蓮華王院(東山区の三十三間堂)」と同規模の建築だったそうです。後に平清盛が後白河法皇のために寄進した蓮華王院の原型になったと言われています。
しかし驕る平家は久しからず、寿永4年(1185年)3月24日、壇ノ浦で滅亡。その年の文治元年(1185年)に起こった「文治地震(ぶんじじしん)」により、得長寿院の三十三間堂は十七間まで倒壊してしまい、その後、得長寿院は再建されることなく廃絶しました。儚いですね。この「文治地震」は巨大地震だったようで、京都は大規模な災害に見舞われ、琵琶湖でも一時的に水位が下がったくらい強烈だったようです。
「壇ノ浦の戦い」からわずか4ヶ月後のことなので、当然、「平家の怨霊」説が流布され、「平家物語」の中にも記述が残っています。
さて、そんな「得長寿院跡」に行ってみます。
「京都勧業館 みやこめっせ」の前から、疎水沿いに歩きます。
少し北上した疎水はすぐに、西に向かって曲がります。道も一緒に曲がってます。向こうの方に見えるのは「東山通り(東大路通り)」です。
その「東山通り」の交差点の少し手前の疎水沿いにありました。夕暮れ時なので物悲しいですね。
石票自体は新しいのか、きれいな状態です。ポツンとたたずんでいます。
この石票は得長寿院の観音堂があった跡だそうです。
平家全盛時代に建てられた、幻の三十三間堂となってしまいましたが、この岡崎一帯が大仏教施設であったことを示しています。「長寿を得る」というとってもご利益のありそうな名前のお寺ですが、なかなかそのようにはいかないようで、鳥羽上皇は崇徳天皇・近衛天皇・後白河天皇の3代28年に渡り院政を敷きましたが、 保元元年(1156年)、53歳で崩御しています。
鳥羽上皇の崩御の後、朝廷は後白河天皇方と崇徳上皇方に分裂し、保元の乱が勃発します。そして、公家の力が弱まり武家政権の始まりとなります。保元の乱で敗れた崇徳上皇は配流先の讃岐国で崩御します。この崇徳上皇は菅原道真、平将門と並ぶ日本三大怨霊と恐れられる怨霊となるのですが、長くなるので、またほかの機会にお話ししましょう。
アクセス
- 京都市バス「東山二条」下車、徒歩5分