宮内庁管轄?
だそうですよ。
僧正遍照といえば、六歌仙および三十六歌仙の一人として有名な歌人ですね。知らないよ、という人も『百人一首』の
天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿しばしとどめむ
僧正遍照
という歌を聞いたら、あぁ、あの人かと思い浮かぶでしょう。
その「僧正遍照」のお墓を訪ねました。場所は山科区の北花山です。
昔は田んぼの中にポツンと存在したんだと思われますが、今は住宅に囲まれていて、大石道を何気なく歩いていると通り過ぎてしまいそうです。上の画像のように、田んぼの畔のような道を入ったところにあります。
周囲は住宅が立ち並んでいます。
「遍照墓」の駒札ですが「宮内庁」の管轄になってますね。
石票には「桓武天皇皇孫」とあります。
遍照について少し調べましたよ。確かに「桓武天皇」の孫にあたりますが、遍照の父である「良峯安世」は臣籍降下(現代で言う「皇籍離脱」)しており、その第八子として生まれていますし、遍照本人は生涯皇籍復帰することもなく、仁明天皇の蔵人から左兵衛佐、左近衛少将兼備前守を経て、従五位上蔵人頭となり臣下として過ごしました。
その後遍照は嘉祥3年(850年)に仕えていた仁明天皇が崩御したため出家し、天台宗の円仁・円珍に師事し、「元慶寺」を建立しています。貞観11年(869年)には、紫野の「雲林院」の別当になるなどして、70歳で僧正となり「花山僧正」と呼ばれました。
駒札には「宮内庁」とありますが、「遍照墓」とのみの表記。石票にも「御墓」とのみの表記。「陵墓」として扱われているのですが、敬称なく表記されています。
まぁ、世間にはいろいろとあるのでしょうし、大人の理由なのでしょうか。なんかよくわからない「遍照墓」でした。
遍照は在俗時代の色好みの逸話も多く、生母不明の男子が4人います。出家後は物事を知的にとらえ客観的に描き出す歌を多く作りました。出家の前後で、歌の歌風ががらりと変わるというほど、つまり人生に大きな影響を与える出来事だったんでしょうね。その後、仏道に成就して僧正にまでなる人ですから、才能という点では、人並外れた方だったのでしょう。
京都には有名な歌人のお墓がありますが、宮内庁管轄のお墓と言えばここぐらいではないのでしょうか。山科もバブル期には雨後の筍のように、計画性もなく住宅が立ってしまいました。遍照も回りを住宅に取り囲まれて、少し息苦しさを感じているかもしれませんね。
アクセス
- 京阪バス「上花山」下車、徒歩2分