清明 強し
よくあることなんですけど、「平安宮中務省東面築地跡」をGoogleMapで検索すると
結果は上の画像の通りで、「平安宮中務省東面築地跡」ではなくて、「陰陽寮跡地」として登録されていますね。これも安倍晴明人気のためなのでしょうか。歴史的な観点から行くと「平安宮中務省東面築地跡」と登録されるのが本筋なんでしょうけど、世間一般の認識(人気)が先行するWebでは「陰陽寮」が勝ってしまうんですね。
ご存知のように平安時代の統治機構は大宝律令により制定された二官八省制を引き継いでいます。日本史の授業などでは「二官八省一台五衛府」とまとめて習いますよね。その中の八省で最も重要な省とされた「中務省(なかつかさしょう)」の跡を訪れます。
「中務省」は天皇に侍従し、詔勅の宣下や叙位などの宮中事務、位記・戸籍などの事務と朝廷に関する職務の全般を担っていました。一般の会社で言えば「総務部」みたいなもんですかね。
で、その総務部(中務省)の中に「陰陽寮」もあったわけです。「寮」というと「学生寮」や「社員寮」のようにある一定の組織に属する人が寝泊まりする生活場所のように思いますが、当時の「寮」は「省」の中で「職務」を行う役所の種類をさします。「陰陽寮」というと「陰陽師」が寝泊まりする場所ではなくて「陰陽道」をつかさどる仕事場でした。
「陰陽道」について少し。6世紀に仏教や儒教とともに「陰陽五行説」が百済より日本に伝えられました。この「陰陽五行説」と密接な関係をもつ天文、暦、易といった自然の観察に関わる学問、占術とあわさって、自然界の吉兆・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として発達し「陰陽道」が大成されます。律令制がしかれると、「陰陽道」の技術は「中務省」の下に設置された「陰陽寮」へと組織化されます。「陰陽寮」には陰陽道(吉凶の判断)、天文道(天文の観察)、暦道(暦の作成)を置きました。
10世紀に陰陽道・天文道・暦道いずれも究めた賀茂忠行・賀茂保憲父子が現れ、その弟子から陰陽道の占術に卓越した才能を発揮し、宮廷社会から非常に信頼を受けた安倍晴明が出ます。天文道の安倍氏と暦道の賀茂氏が二大宗家として独占的に支配するようになります。
中世には安倍氏が「陰陽寮」の長官である陰陽頭を世襲し、賀茂氏は次官の陰陽助として安倍氏が優位に立ちます。戦国時代には、賀茂氏の本家であった「勘解由小路家」が断絶してしまい、暦道の支配権も安倍氏に移りますが、安倍氏の宗家「土御門家」も戦乱の続くなかで衰退して行きます。民間では室町時代頃から陰陽道の浸透がより進展し、占い師、祈祷師として民間の陰陽師が活躍し、庶民の生活に「陰陽道」が広がりを見せます。その後は、民間で暦や方角の吉凶を占う民間信仰として広く日本社会へと定着することになりました。
明治維新後の明治2年(1869年)に陰陽頭「土御門晴雄」氏が死去し、明治3年(1870年)、「陰陽寮」は嫡男の「土御門晴栄」氏の代に廃止され、1000年以上の歴史に幕を閉じます。
そして明治5年(1872年)には、新政府は「陰陽道」を迷信として廃止させます。現在、土御門家の開いた「天社土御門神道」と、高知県香美郡物部村(現:香美市)に伝わる「いざなぎ流」が民間信仰として現代に陰陽道を伝えています。
では安倍晴明も務めていた「陰陽寮」跡地のある「平安宮中務省東面築地跡」を訪れます。
丸太町通りを西に向かって歩いていると、「松屋町通り」でいきなりカクッと「丸太町通り」が曲がってます。太閤豊臣秀吉の天正の地割のあおりを受けて「碁盤の目」になってません。ここから少し歩くと、「智恵光院」でまた曲がって、道は東西方向に戻っています。
「智恵光院通り」からもう少し西に歩くと、見えてきました。
地図で確認すると、上の画像のマンションが目的地になってます。
上の画像は信号待ちの時に撮りましたが、石票がわかりますか。
マンションの敷地内、それも入口の真ん前ですよ。
マンション建設時にも、こういう粋な取り計らいをしてくれるというのがとっても嬉しいですよ。
上の画像では案内書きに対して、縦に白いタイルが敷き詰められていて、真ん中に黒い筋が走ってますね。ここが築地の中心線だそうです。ここから左(西)が「中務省」で右側(東)が外になります。
そして、この地は「中務省」でいえば北東角に近いところで「陰陽寮」は「丸太町通り」の南数十メートルあたりだそうです。
「平安宮中務省東面築地跡」の説明書きです。
何気なく通勤で通っている丸太町通りですけど、1200年前には国を動かす役所が連なっていた場所なんですね。現在は住宅地が多い場所ですが、今から1200年後にはどんなになっているんでしょうか。
アクセス
- 京都市バス「丸太町智恵光院」下車、徒歩1分