京都の変遷を見てきた親柱
京都の観光地を抜ける大路に「東大路通り」があります。岡崎の端をかすめて祇園の八坂さんや清水寺に通ずる幹線道路です。祇園から南は、土日などの休日は当然のこと、平日でもとてもよく混むところです。
今では「東大路通り」と言いますが、私の世代よりもう少し若い人たちまでは「東山通り」と言った方がピンときますし、無意識に「東山通り」と口にしてしまいます。「東大路三条」というよりも「東山三条」といわないと、「それどこ?」と返ってきそうです。
そんな「東山通り」ですが三条通り以北は平日でもけっこう交通の流れはスムーズに流れる通りです。今日紹介する「徳成橋」は、東山通りの丸太町を少し南に下った鴨東運河に架かっている橋です。
「橋」といっても、東山通りを車で走っていると「橋」を感じさせないぐらい「道」になってしまっている「橋」でもあります。
そんでもって、今日の主役は現在の「徳成橋」ではなくて、昔の「徳成橋」なのです。
岡崎公園から、鴨東運河に沿って河岸の北側を歩いていると、現在の「徳成橋」の本手前に旧「徳成橋」の親柱を見つけました。
狭い道沿いなのですが、無造作にどんと置かれている印象です。
「とくせいはし」と彫られていますね。
「大正二年五月竣工」なので、百年以上前の親柱です。
「徳成橋」に近いところにもう一本の親柱があります。
こちらは「徳成橋」と漢字で彫られていますね。
なんかこの景色を見ていると物悲しくて。「徳成橋」が新しくなった時にお役御免となった親柱がその橋のすぐ横に置かれたままになっている。今までは自分が一番目立っていたのに、その座を新しい親柱に奪われてしまって、その傍らで新しい親柱の活躍を毎日見続けないといけないという、なんとも哀愁を感じるシチュエーションです。
橋の東側に2柱の親柱があったので、もしやと思って橋の西側に行ってみると...
思った通り、こちら側にも旧「徳成橋」の親柱が残ってました。
こちら側なんか、木の根元で地面から浮きかかっていますよ。
もう一本も汚れてしまって、昔の輝きは見る影もありません。
路側の石はきれいに整備されて並んでいるようですね。せっかくならこの親柱達もなにがしかの役目を持たせるような整備にすればよかったのにと、老婆心ながら思ってしまいます。ほんとに余計なおせっかいかもしれませんが、その時代の文化を表す貴重な資料だと思うので、ただただ放置の後に行方不明になったなどという顛末にならないことを祈ります。
アクセス
- 京都市バス「熊野神社前」下車、徒歩3分