女紅場址 女子教育の黎明

女紅場 ってなに?

「じょこうば」って読みそうですが、「にょこうば」だそうです。「”女工場”じゃないの?」ともいわれそうですが、「女工場」という名称のところもあったそうです。明治時代の女性向けの教育機関です。簡単に言えば女学校のもととなった学校です。

そんな「女紅場」のなかでもとくに後世有名である「京都府立京都第一高等女学校」の前身となった「女紅場」址を訪ねます。

女紅場址 No2

このBlogではよく出てくる鴨川ですが、今回は私の通勤経路である丸太町通りに架かっている「丸太町橋」です。西に向かって歩いています。橋の向こうには、周りとはちょっと雰囲気の違った建物が見えますよね。

女紅場址 No3

この建物は「旧京都中央電話局上分局」で、中には現在スーパーのFrescoが入ってます。

女紅場址 No4

「丸太町橋」から下流(南方向)を見ます。今日は穏やかな流れですね。

女紅場址 No5

今度は上流(北方向)を見ます。一つ上にある「荒神橋」は夕方の通勤渋滞中ですね。鴨川の飛び石を渡っている人も見えます。のどかな京都の日常風景です。

女紅場址 No6

「丸太町橋」渡り切ると「旧京都中央電話局上分局」の前にとても立派でよく目立つ石票があります。走行中のバスから見てもとてもよく見えているんですよ。

さて、冒頭でも書きましたが「女紅場」というのは、1870年代に女子に対して読み書きや算盤、裁縫・手芸・染色を教えた教育機関のことです。江戸時代の幕末に民間で行われていた裁縫塾に公的な教育の要素を組み合わせたものです。特に裁縫や手芸を教えたことから、「裁縫所(さいほうじょ)」「縫製所(ほうせいじょ)」とも呼ばれました。なので「女紅」とは「女工」とも表記されることがありました。

この「女紅場」は当時、細民と呼ばれた下層社会の子女や芸妓・娼妓などに、必要最低限の教育を与えることを目的としていました。学制・教育令時代には盛んに活動が行われていましたが、後には女子教育制度の拡充によって衰退していきます。

また、これとは別に華族や士族の子女のために設置された学校も「女紅場」と呼ばれました。女子に高等教育を施す学校を指します。今回の「女紅場址」はこちらの方です。

今回の石票の「女紅場」は明治5年(1872年)に九条家河原町別邸内に設けられたのが始まりです。開設時には英学と女工(手芸・手工)の二科を設置し,英国人イーバンス夫妻を教師に招き,「新英学校女紅場」と呼ばれました。明治維新後すぐに女性に英語教育を行うというのはすごいですね。

明治7年(1874年)には「英女学校女紅場」という名称になり,のちに「京都府立京都第一高等女学校」となります。現在の「京都府立鴨沂(おうき)高校」の前身です。

女紅場址 No7

北側の面には「本邦高等女 学校之濫觴 女紅場址 従是」と彫られています。

女紅場址 No8

西側の面には「女紅場ハ京都府立京都第一高等女学校 創立当初ノ名称ニシテ明治五年四月十 四日旧九条家河原殿ニ開設セル者ナリ」と彫られています。

この「新英学校女紅場」ですが、資料などを見ていると、以前このBlogで紹介した「梅田雲浜」の後妻の千代子とその次女である「ぬい子」が勤務していたという記録が残っているそうです。(梅田雲浜とは安政の大獄で獄死した儒学者)

大河ドラマは また「幕末」... 梅田雲浜(うめだ うんぴん)は、江戸時代末期(幕末)の儒学者です。若狭国小浜藩の出身で、藩の儒学者・山口...

また、新島襄の妻である八重は、結婚前には「新英学校女紅場」の「権舎長兼教導試補」を務めていたと記録があります。小笠原流礼法と養蚕を教えたそうです。

京都の史跡はその歴史を紐解くといろいろなところでつながっているんですね。石碑を巡るだけでも面白いですよ。

アクセス

  • 京都市バス「河原町丸太町」下車、2分

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