頼山陽山紫水明處 山紫水明の始まり

これこそ あまり知られていない「京都」

またまた読みにくいですね。パッと見ると頼山陽山、紫水明處と分割してしまいそうですが、よく見ると「山紫水明」という言葉が入っているので、「頼山陽、山紫水明、處」となることがわかります。

なんとここが、「山紫水明」という言葉の始まりの地なんですよ。「山紫水明」というと、なんか中国の古典から取ってきた言葉かと思いがちですが、実は日本人が創った情景をとても豊かに表す言葉です。

事の始まりは、丸太町通り。

頼山陽山紫水明處 No2

丸太町通りのとある小さな交差点で石票を見つけました。京都市内には石票なんてごまんとあるのですが、目に留まったのが「国定史跡」という言葉。丸太町近辺の鴨川近くに国定史跡があるとはよく知りませんでしたので、「此ノ北 右側」と石票の示す方向に行ってみます。

頼山陽山紫水明處 No3

で、角を二つ曲がってクランクを抜けると見つけました。

頼山陽山紫水明處 No4

「頼山陽山紫水明處」です。何気ない少し古い住宅の横に入口の引き戸があります。

頼山陽山紫水明處 No5

地面の石畳はとてもきれいに整備されています。

見学したかったのですが、事前申し込みが必要とのことで残念ながら叶いませんでした。中まで紹介できなくてごめんなさい。

頼山陽(らい さんよう)は武家の時代史である『日本外史』を書いた人です。簡明な著述で書かれていたので、巷ではベストセラーとなって江戸時代の幕末から明治維新、昭和の戦前まで広く影響を与えた書物です。ただし参考史料として軍記物語なども用いているので、歴史的事実に忠実であるとは言いがたいのだそうです。現代でもよく読まれている史伝小説の源流の一つですね。

この「山紫水明處」は山陽が造った書斎兼茶室です。山陽は東山の眺望を愛し、より郊外の地に移り住むべく土地を探し、文政5年(1822年)についに6度目の転居で東山の眺望とても美しいこの地に移り住み、「水西荘」と名付けます。そして書斎兼茶室を、以前住んでいた屋敷の名前からとって「山紫水明處」と名付けました。

当時、指折りの知識人であり茶の湯にも精通していた山陽は、抹茶より煎茶を好み、水西荘に転居してからは、友人が来ると鴨川の水を汲んで煎茶を入れて振る舞うなど、形式にとらわれない、自由な茶の湯を楽しんでいたそうです。

そして書斎兼茶室だった「山紫水明處」も、形式にとらわれない明るく開放的な造りです。障子の明かり採りにガラスを用いたり、欄干に中国風の意匠を用いるなど、煎茶の影響が見られるそうです。

また「山紫水明處」の庭には、京都ではなかなかお目に掛れない「降り井」という、鴨川の伏流水が湧き出す井戸が造られています。「降り井」は地表から2mほど下に「井筒」が設けられた半地下式の井戸で、「井筒」まで降りて水を汲むことから、「降り」井とよばれています。残念ながら鴨川の河床が洪水防止のために切り下げられたので「降り井」は枯れてしまっています。

「山紫水明」という言葉は、とても写実的な印象の言葉ですね。目の前に広がる美しい自然を風光明媚に表現するにはもってこいの言葉だと思います。山が紫というのは他府県の方にはあまりなじみがないかもしれませんが、京都では「比叡山」のことを「紫叡(しえい)」と表現することもあります。

調べてみるとなかなか見どころ満載の史跡のようですね。忙しくて時間が取れませんが、「山紫水明」の原点となった場所ですので、いつか見学してみようと思います。

アクセス

  • 京都市バス「河原町丸太町」下車、徒歩3分

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