京都の花街
今回は「立命館草創の地」と「吉田屋跡」です。同じところに石碑と駒札が立っているんですよ。その理由はまたあとで。
まずは行ってみましょう。
場所は「東三本木通り」という、若い京都人には知らない人が多いであろう場所です。三本木といえば昔、三本木遊郭があった所です。花街ですね。
丸太町通りから三本木通りで北に上がるのですが、丸太町通りからは家一軒ぶん北に進むと、どん突きで道が左右に分かれます。その両道ともにすぐに北に向かうので、東側の道が「東三本木通り」西側の道が「西三本木通り」と呼ばれます。
その「東三本木通り」の方です。上がっていくと、ほどなく通りの右側に大きな駐車場が出現します。
その入口のところにあるのが「立命館草創の地」石碑と「吉田屋跡」の駒札です。
けっこうぎゅうぎゅう詰めに押し込められていますね。
ここが何を隠そう、有名な「立命館大学」のもととなった「京都法政学校」が設立された場所です。石碑にあるのが当時、この地に仮校舎としてあった「清輝楼」です。
料亭で大学を開校するとは粋ですね。
明治33年(1900年)6月、西園寺公望の文部大臣秘書官であった「中川小十郎」は公望が1869年に開いた私塾「立命館」の名称を継承して、法律・政治の二科を置く「私立京都法政学校」を創立し、仮校舎として「清輝楼」で授業を開始しました。この時には3年制の夜間学校でした。翌年12月には広小路河原町(現京都府立医大の西構内)の新校舎に移転しています。
ここに至るまでには長い道のりがありました。私塾「立命館」は、明治2年(1869年)に西園寺公望がに京都御所内の私邸に開設した家塾だったのですが、明治3年(1870年)、塾のあり方に不穏を感じた京都府庁が差留命令を下して、私塾「立命館」はわずか1年弱で閉鎖されてしまいます。西園寺公望は留学を控えており、なすすべもなくフランスへ出発したのでした。その後帰国した公望は政界入りして、教育に関することからはしばらく身を引きます。それに代わって秘書官であった「中川小十郎」は京都帝国大学創設の中心となって大学創設をするのですが、京都帝国大学が制度上旧制高等学校卒業生しか受け入れることができなかったことに限界を感じ、自ら私立大学を興すことを思い立ち「私立京都法政学校」の設立につながりました。
そして「私立京都法政学校」が発展、拡大し、現在の「立命館大学」につながります。「中川小十郎」は西園寺公望が提唱した「能力と意欲のある人に国として(教育の)機会を与えるべき」という教育理念を実践して、旧制高等学校卒業生以外の人々にも教育を受ける機会を設けたのです。
さて「私立京都法政学校」の仮校舎として使われた「清輝楼」なのですが、もともとは「吉田屋」という料亭でした。この「吉田屋」こそが、江戸時代の幕末に討幕派の志士たちが密会した場所として有名なところです。「清輝楼」は「大和屋旅館」として存続していたのですが、平成8年(1997年)に営業をやめ、現在は駐車場となってしまいました。とっても残念です。
「吉田屋」は木戸孝允(桂小五郎)の妻となった幾松さんが勤めていた料亭で、三本木の花街の中心になっていました。三本木にはもう花街の名残はほとんど感じられませんが、とても静かな住宅街で、古い建物も残っています。
アクセス
- 京都市バス「河原町丸太町」下車、徒歩3分