中臣神社 「藤原さん」のふるさと

山科(やましな)

先日の某TV番組で京都人の変なところを紹介してましたが、その中に「山科は京都ではない。」というのがありました。

他府県の方からすると、なんのこっちゃ? なのですが、京都人はもとより、大阪や滋賀の人たちにはよくわかる言い方だと思います。山科と言われる地区は、山科盆地であって、京都盆地からは東南東の方角に位置するところです。京都盆地からすると山科は、東山三十六峰の向こう側なので、当然 「山科≠京都」と感じても致し方ないのではないでしょうか。当然行政上は京都市山科区ですが、私も小さいころは山科と言えば大津と区別がつかないような感覚でしたもん。醍醐なんかは宇治の属国のように思っていましたよ。

別に山科を馬鹿にしているのではなくて、小さいころから京都盆地の中に住んでいると、東山トンネルが京都の東の境、トンネルを抜けたら京都から出たという感覚なのでした。

さて、そんな山科ですが、歴史を見ていくとなかなか面白いところではあります。古代においては「中臣氏(なかとみうじ)」の本拠地であったところです。中臣氏と言えば大きな力を持っていた豪族ですが、その代表たる「中臣鎌子(鎌足)」は古代日本における一大イベントである大化の改新の中心人物です。当時、政権を握っていた豪族の「蘇我入鹿」を暗殺、入鹿の父の「蘇我蝦夷」を自殺に追いやり、内臣に任じられて、軍事指揮権を握りました。「中臣鎌足」は天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣にも任ぜられ、「藤原」の姓を賜り「藤原鎌足」と称すのですが、なんと翌日に逝去してしまいます。

この「藤原氏」がのちの「藤原道長・頼通」など、平安時代に世をほしいままにして権勢を誇った「藤原氏」の祖先です。

そういう由緒のある中臣氏の本拠地に残っているのが中臣遺跡です。

中臣神社 No2

昭和44年(1969年)に地元の高校生が弥生時代の土器片を見つけたのを皮切りに、昭和46年(1971年)「中臣十三塚古墳群」の一部が発掘されたのですが、現在は「折上神社」境内の円墳である「稲荷塚古墳」とそのすぐ東の円墳「宮道古墳(宮道朝臣列子墓)」の2か所のみで、他は宅地開発で失われてしまいました。

そして、中臣氏と関係が深いと思われる「中臣神社」があります。

中臣神社 No5

こじんまりとした神社なのですが、きれいに手入れが行き届いています。

中臣神社 No4

旧記が失われてしまったので、「中臣氏」との関係は詳しくわかりません。中臣鎌足の殯舎(ひんしゃ)跡とも伝えられ、「中臣十三塚古墳群(鎌足塚)」の遥拝所を神社としたものとも伝えられています。創建に関しては、延喜3年(903年)に醍醐天皇が山科郷への行幸のときに、「倉稲魂神(稲荷神)」が現れて醍醐天皇と誓約があり、勅命によって勧請されたそうです。

神社の横に歌碑があります。

中臣神社 No3

あとたれて 光やはらく 西の山 人のねがひを みつのともし火

醍醐天皇行幸の時にあった稲荷神の御神詠だそうです。

中臣神社 No7

祠は閉じられていて、中は確認できませんでした。

中臣神社 No6

「中臣神社」は正式には「二之宮(にのみや)」と称されており、山科区西野山岩ヶ谷町にある山科神社の御旅所でもあります。

神話や伝説がいろいろとあり、何が本当の史実なのかがよくわかりませんが、古代から脈々と受け継がれてきた神社として山科の地にあります。

アクセス

  • 京阪バス「来栖野華ノ木町」下車、徒歩2分

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