月読神社(京都市) 松尾大社摂社

安産守護の神様

四条通りを西へ西へと進んでいくと、だんだんと道が細くなり、「松尾橋」で桂川を渡ります。さらに進むと、どん突きに「松尾大社」があります。「松尾大社」はとっても有名でありガイドブックにもよく載っているので、その近くにある「月読神社(つきよみじんじゃ)」の方を紹介します。

月読神社は松尾大社の摂社で「松尾七社」の一社です。正式には「月讀神社」と書きます。また「松尾大社」、「月讀神社」と以前紹介した「櫟谷宗像神社(いちたにむなかたじんじゃ)」を合わせて「松尾三社」と呼びます。

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ではさっそく「月讀神社」に行ってみましょう。

押見宿祢霊社遺跡碑

「松尾大社」の前の道を南に向かって歩いていくと、「押見宿祢霊社遺跡碑(おしみのすくねれいしゃいせきひ)」というのがあります。こちらも正式には「押見宿禰霊社遺跡碑」と書かれています。

月読神社 No2

「日本書紀」によると,顕宗天皇(けんぞうてんのう)3年(在位については実態は明らかではないが487年ごろではないかと推測されている)に「阿閉臣事代(あえのおみことしろ:あべのおみことしろ)」が勅命で「任那(みまな)」の地に赴くことになったのですが、その時に壱岐で「月読命」があらわれて「我が月神を祀るように。」とご神託がありました。「阿閉臣事代」は帰郷後にこれを奏上したところ大堰川の岸辺の山城国葛野郡歌荒樔田(うたあらすだ)に神領を賜り壱岐の「月読神」が勧請され、「天月読命(あまのつくよみのみこと)」が祀られます。「押見宿禰」も祀官として京に迎えられました。これが「月読神社」の始まりとされています。

その後、押見宿禰の子孫は「伊岐氏(壱岐氏)」と名乗り、代々「月読神社」の禰宜職を継ぐことになります。

しかし斉衡3年(856年)に水害が起こって、歌荒樔田から現在地に遷移されたということです。その時に「伊岐氏」は「松室氏」と称するようになったそうです。

石碑によりますと、その後「松室氏」は「一族栄え12世紀初めには二条帝の皇后の御生母育子を出すに至った」と刻まれています。でもこれはどうも間違いのようで、「大蔵大輔伊岐致遠(いきのむねとう)」の女(むすめ)が二条天皇の第二皇子を産んでいるそうです。この皇子は二条天皇の中宮であった「藤原育子(むねこ:いくし)」によって育てられ、7ヶ月と11日で親王宣下・立太子し、その日のうちに践祚(せんそ)されています。これが歴代最年少の「六条天皇」の即位です。六条天皇は在位2年8か月で,祖父である後白河上皇の意向により、叔父の憲仁親王に譲位(高倉天皇)して歴代最年少の上皇(六条院)にもなっています。その後元服を行うこともなく、数え13歳(満年齢11歳8ヶ月)で崩御、死因は赤痢だと言われています。

ちょっと話が脱線しました。

「松室氏」は江戸時代には、男子が「非蔵人」、女子が御局として宮中に仕える者が多かったようですが、明治維新に入ると時代の変化によって、神職の世襲制が廃されたこともあり、松室氏一族は四散したようです。長きに渡って、松室氏が禰宜職を勤めてきた「月読神社」には、「押見宿禰」を祀る社があったと伝えられているのですが現在は存在していません。

この石碑は「松室氏」が自らの出自を明らかにするために昭和42年(1967年)に松室同族会によって建立されたもので、「押見宿祢霊社」の跡を示すものであると記されています。

月讀神社

「押見宿禰霊社遺跡碑」の南隣が「月讀神社」の入口です。

月読神社 No3

入口の前に看板があるのですが、看板によるとご利益満載ですね。

月読神社 No4

こちらにも書かれていますよ。

月読神社 No5

入り口前に立ちました。立派な鳥居が待ち構えています。

月読神社 No6

駒札です。この辺り一帯を治めていた秦氏との関係が深かったと書かれています。

月読神社 No7

階段の上が境内になります。

月読神社 No8

鳥居の神額です。「月讀大神」

月読神社 No9

私が訪れたのは、少し前の新緑がとってもきれいな時期でした。階段を上がると社門です。

月読神社 No10

拝殿には毛氈が敷かれています。

月読神社 No11

本殿です。

月読神社 No12

本殿の神額は味がありますね。年代を感じます。

月読神社 No13

残念ながら本殿は閉じられているので、ご神体を直接拝むことはできませんでした。

月読神社 No14

金色がきれいです。

月読神社 No15

金色といえば、拝殿にあったこれもきれいでした。これは何というのでしょうかね。

月読神社 No16

拝殿の階段に使われている横柱の化粧板です。こんな装飾がなされているというのはとってもゴージャスですね。

御船社

本殿にお詣りした後は、境内の末社にお詣りです。

月読神社 No17

「御船社」です。海上交通安全、水難除のご利益があります。

月読神社 No18

松尾大社の末社にも属しており、「松尾大社神幸祭」の際には、「御船社」で渡御の安全祈願祭が行われます。

願掛け陰陽石

二つの石が並んでいます。

月読神社 No19

「願掛け陰陽石」といって、左右の2つの石を撫でて願い事をすると願い事が叶うといいます。

月読神社 No20

左が陽で、右が陰ですね。寄り添っているように見えます。

解穢(かいわい)の水

自己の罪、穢れを除くご利益があるそうです。

月読神社 No21

「解穢(かいわい)の池」です。

月読神社 No22

こちらが「解穢(かいわい)の水」です。山から湧き出ているご神水ですが、飲めませんのでご注意ください。(undrinkable)

月読神社 No23

私は罪も穢れも多々ある身なので、ご利益にあずかりたいです。

聖徳太子社

月読神社 No24

「月読命」を崇敬した聖徳太子祀っています。

月読神社 No25

月讀神社は各地にあるのですが、聖徳太子を祀っているところが多いです。

月延石

境内には安産・子授けのご神徳の「月延石」があります。

伝承によると、臨月であった「神功皇后」が新羅遠征の折に、この石を撫でて出産を延べて出陣をし、後に無事、「応神天皇」を産んだという言い伝えから安産の神石として信仰されています。後の「舒明天皇」の時に「月讀神社」に奉納されたそうです。

また「月延石」という名から、月のものが延びる、即ち子宝を宿すということから、子授けの神石としても信仰されています。

この「月延石」は三つに分かれていて、一つはこの「月讀神社」に、一つは福岡糸島の「鎮懐石八幡神社」に、そしてもう一つは壱岐の「月讀神社」に祀られました。

月読神社 No26

安産祈願の方法ですが、まず社務所で「祈願石」を拝受します。「祈願石」に名前を書いて、月延石へお供えします。お供えする際に、「月延石」を撫でて力を頂きます。

月読神社 No27

たくさんの「祈願石」が供えられています。

月読神社 No28

当の現場を見ると、上の画像の上段の石が「月延石」のようですね。

月読神社 No29

昔の写真を見ると、二つ上の画像に写っている上側の平べったい石は存在せず、下側の礎石のような石の上に、一つ上の画像の3つの石のうち一番大きな石一個だけが置かれています。ということは、この丸い石の方が「月延石」なのでしょうか。

「月延石」の言い伝えには「神功皇后」が、「この石でお腹をなでた」「この石をなでた」「この石を腰に挟んだ」等の記述があり、謎は深まるばかりです。

むすびの木

「月延石」のすぐ横に木が生えています。

月読神社 No30

「むすびの木」といって縁結び・恋愛成就のご利益があるそうです。2本の木が結びついているのはよく見ますが、ここは珍しく3本の木が結びついています。ご利益ありそうですね。

押見宿祢の子孫である松室氏により代々守られてきた「月讀神社」です。「松尾大社」の方は超有名なので参詣の人がいつも絶えずに訪れますが、こちらは割合と静かで、京都の神社を感じさせてくれるパワースポットです。ぜひともお詣りしていただきたいと思います。

アクセス

  • 京都市バス「松室北河原町」下車、徒歩5分
  • 阪急電鉄嵐山線「松尾大社」下車、徒歩10分

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