図子と路地
京都市内の中心部では、道はほぼ碁盤の目のように東西と南北に作られています。これこそ「ほぼ」なんですね。
そして一番大きな幹線道路を「大路」といい、少し規模が小さくなると「通り」、さらに細くなると「小路」と呼びます。
さらに、細くなると「図子(辻子)」や「路地(ろ~じ)」と呼ばれる狭い道になります。他の方のBlogなどでもよく紹介されていますが、「図子(辻子)」は通り抜けて向こう側の道に出られるものを指し、「路地」は行き止まりになっているものを指します。
道幅にはあまり関係なく、車一台通れるぐらいの幅があるところもあれば、それこそ生活道路で一般の人が入るのもはばかられるような狭い道もあります。
今回は「革堂図子」と呼ばれるところを訪ねてみます。場所は今出川通りから小川通りを下ったところです。
小川通りを下っていくと、ほどなく変形した十字路に出くわします。
行き止まりのように思えますね。細くなりますが、左寄りになって道はまだ続きます。
で、なんじゃこれは。南から伸びてきた道と、北から伸びてきた道が、お互い譲らずここで辻褄合わせたような感じです。
実はこの「小川通り」はもっと北の方から続いているのですが、真っすぐではなくカクカクと階段状に折れ曲がっている通りです。平安京の時代には存在せず、豊臣秀吉公による「天正の地割」で新設された通りです。この小川通りを南下していくと途中で一度切れていますが、延長線上には有名な「天使突抜通り」があります。
もう、秀吉無茶苦茶です。
少し行くと公園があるのですが、何ともすごい住所です。「武者小路(むしゃのこうじ)上る靱屋町(うつぼやちょう)」下にローマ字表記が無いとなかなか読める住所じゃありません。
さて公園の南側にある東西の道が目的の「革堂図子」です。
ここの住所は「武者小路下る革堂町(こうどうちょう)」です。以前紹介した「革堂 行願寺」があった場所です。「行願寺」の前に立っている大きな石柱の「一条革堂」はもともとここにあったのです。
行願寺は豊臣秀吉による都市計画のために、天正18年(1590年)に寺町荒神口(現・上京区、京都御苑東)に移転させられたのです。またしても秀吉無茶苦茶。
その後、行願寺は宝永5年(1708年)の大火の後に、やや南に当たる、寺町通りの丸太町を下った現在の地に移転しました。
小川通りから西を見ています。「革堂図子」はけっこう広く、車一台は十分通れますね。昔はもっと細かったのかもしれませんけど。
設置された消火器の箱には「革堂町」の文字が。行願寺は移転させられても、地域に名前がしっかりと残っています。
反対側は「油小路通り」につながっています。「油小路通り」から東を向いて写真を撮りました。新しい家も立ち並び昔の面影はあまり残っていないようですね。何か古いものはないかと2往復しましたがこれと言っては見つかりませんでしたよ。
油小路通りに近いところは「革堂西町」という町名ですね。
さて、もう一度「小川通り」からどん突きにある「油小路通り」を見ています。昔は広い敷地を持った「革堂 行願寺」だったようで、門前町も栄えていたようですが、移転してしまった後の「革堂町」は他とあまり変わらない住宅地になってしまっています。
「革堂図子」をもう一度通って「油小路通り」に出ました。北に向かって歩き今出川のバス停で市バスに乗ります。
昔の面影もなくなってしまい、新しくこの地に住む人たちにとって「革堂図子」って言っても、「なんのこっちゃ?」でしょうね。
アクセス
- 京都市バス「堀川今出川」下車、徒歩5分