もうじき祇園祭りなので 御霊信仰
京都市内の御霊神社で有名なのは「上御霊神社」ですね。応仁の乱が勃発した場所としても有名です。「上」御霊神社があるので当然「下御霊神社」もあります。
で、今回は上桂にある「御霊神社」です。当然、対になる下桂にも「下桂御霊神社」があります。
「御霊」と名の付く神社はたくさんあって、「御霊信仰」が盛んであったことを表しています。昔の人にとっては死者の祟りほど怖いものはなかったんでしょうね。
「上桂御霊神社」は阪急上桂駅の東の方にあります。このあたりは最近になって道が整備されてきたので、昔からある道は細いままです。「上桂御霊神社」の前の道も、昔から交通量はけっこうあるのですが、まだ道は細いままです。歩行者や自転車も多く、そこに市バスも走っているので、車は走りにくい道ですね。
さて、「上桂御霊神社」です。
大きなクスノキがあったり、木々が植えられていたりで緑が多いところなので、少し離れたところからでも、鎮守の森としてすぐにわかります。
一の鳥居は、赤みがかった朱色の鳥居で目を引きます。
鳥居の神額です。ツートーンカラーで目立つ感じです。
立派な石柱が立っているのですが、「御霊神社」とだけシンプルに刻まれています。
詳しい創祀や変遷は不明です。古代に山背国葛野郡上桂村を開拓した人々が「太田神」を祀り五穀豊穣を祈ったのが始まりだそうです。
舞殿です。子供たちが境内で遊んでました。昔からの光景なんでしょうね。
本殿です。
けっこうしっかりした造りの印象です。
平安時代には御陵信仰が盛んとなり、「上桂御霊神社」も冤罪で非業の死を遂げた「伊予親王(いよしんのう)母子」の御霊の鎮魂のために合祀して「御霊神社」と称しました。
「伊予親王」は平安時代初期の皇族です。母は藤原吉子 (南家是公の娘)で、第50代・桓武天皇の第3皇子といわれています。三品に叙され、大同元年(806年)には中務卿兼大宰帥に任ぜられるまでになりました。ところが翌大同2年(807年)、「伊予親王」に謀反を勧めた「藤原宗成(むねなり)」が捉えられると、宗成は「謀反首謀者は伊予親王」との讒言(ざんげん)により、逆に親王は母とともに捕らえられ、奈良の「川原寺(弘福寺)」に幽閉されてしまいます。親王は母とともに絶食し、服毒自害しました。その後、無実が判り承和6年(839年)一品が追贈されています。
その後、第51代・平城天皇は伊予親王らの怨霊に悩まされ続け、弟の嵯峨天皇に譲位するまでになりました。そして貞観5年(863年)「神泉苑」で「御霊会(ごりょうえ)」が催された際には、伊予親王もその中で慰霊された「六所御霊」の1柱とされました。
この神泉苑で行われた御霊会が、京都三大祭りの一つである「祇園祭り」の原形です。この御霊会が脈々と現代まで継続し、京都の夏の一大ページェントである祇園祭りとなっています。
「和神苑」とあります。
解説などはありませんので、委細が不詳です。
本殿の南隣にあるのが「照玉社」です。
「照玉社」のご祭神は「照玉乃神」であり、開運長寿、難病治癒のご利益があります。
もともとは御神木だったのでしょうか。
向かって左から、三ノ宮神社、三十番神社、談山神社、厳島神社、八幡神社、植松神社、春日神社が祀られています。
静かな境内に子供たちの声が聞こえます。
さて、最後になりましたが、こちらです。
摂社である「北宮」です。
「北宮」の祭神は「火雷神(ほのいかづちのかみ)」菅原道真公を祀っています。火雷厄除などの信仰があります。ご神徳によって、上桂には大火事が起こらないといわれています。
「御霊」を祀ってますので、やはり菅原道真公ですね。
午後3時過ぎのさわやかな風の中です。
緑がきれいな時期にきて正解でした。
盛夏になると、濃い緑になりますが、その手前の黄緑色がとても若々しくて新鮮です。樹齢約150年というクスノキもあり、昔ながらの鎮守の森を感じさせられます。
アクセス
- 京都市バス「上桂西居町」下車、すぐ