頼政といえば鵺
京都府亀岡市にある「頼政塚」です。「頼政塚」は名前の通り、平安末期に宇治の平等院で非業の死を遂げた多田源氏「源頼政(みなもとのよりまさ)」の首塚です。
場所は亀岡市の「西つつじヶ丘」にある小高い丘の上です。
「源頼政」は兵庫県川西市周辺に広がる摂津多田庄を本拠とする「源満仲(みつなか)」の長男です。「頼政」は弓の名手として知られ、「平家物語」の中では、先祖であり大江の鬼退治で知られる「源満仲(よりみつ)」より受け継いだ弓を手にして、家来の「猪早太(いの はやた)」とともに夜な夜な禁裏の清涼殿に現れ「二条天皇(※)」を悩ませた「鵺」を退治します。
この功績により、「頼政」は「二条天皇」より恩賞として丹波に領地を賜りますが、弓矢の功績で得たことから、「矢代荘(矢田荘)」と呼ばれました。「頼政塚」よりもう少し西に「矢田町」という地名が残っています。
※・・・・近衛天皇、後白河天皇、鳥羽天皇と史料によって記述が異なります。
「頼政」は治承四年(1180年)「以仁王」の令旨をもって「平家」打倒を掲げて挙兵します。この時、田野町にある「神蔵寺」の僧兵も呼応して馳せ参じ一緒に戦ったのですが、多勢に無勢でその利無く、残念ながら「宇治川の合戦」で自刃しました。その亡骸は、「猪早太」が領地であった「矢代荘」に持ち帰り、葬った塚が「頼政塚」です。わざわざ宇治の地から運んだのは、「矢代荘」が彼の領地の中で最も宇治に近かったからと言われていますが、真相は不明です。
後世、江戸時代に近辺の僧侶が存在を疑って「頼政塚」を掘り起こしてみたところ、石棺があったと伝わっています。ただし、亀岡盆地平野部の周辺には古墳がたくさんあるので、「頼政」の石棺なのかどうかわかりません。正式な学術調査が必要と思われます。また「亀山藩」の家老「松平新祐戸敏房」の撰文による「従三位源公之墓」と刻された石碑にその由緒が刻まれています。
でも、近くの国道9号線に「頼政塚」の交差点があり、京阪京都交通にも「頼政塚バス停」があり、参拝の道もきれいに整備されており、市井の人々には「頼政」の塚として根付いています。
それでは、行ってみます。JR嵯峨野線「亀岡駅」からバスが出ており、「頼政塚」の近くにもバス停があるのですが「亀岡駅」からえっちらおっちらと歩きました。
亀岡市立「つつじヶ丘小学校」の東側の道に「頼政塚」に通ずる参拝路があります。住宅街からこの階段を上がっていきます。周りには駐車場がないので、車で来られると少し離れたところにしかコインパーキングなどがありません。
階段を上がって右を向くと…
また登りです。さすがに「塚」ですね。どんどん上がりましょう。
と、すぐに鳥居が見えてきます。
これは「頼政塚」ではありません。
「大地主大神碑」があります。祠はないようです。
「大地主大神碑」を通り過ぎてもう少し上がります。
頂上に来ましたよ。
こちらが「頼政塚」です。
最初の階段がもうすでに山の中腹なので、頂上は小高い山の上といった感じです。
「頼政塚」の説明書きです。
長い間祀られているので石碑がたくさんありますね。真ん中が「従三位源公之墓」と刻された石碑です。
東に向かって鎮座しています。
先の台風の影響か、土台部分が一部崩落しています。修理が必要ですね。
周りに木々も生えているのですが、きれいに手入れされていますので亀岡市の眺望は良好です。
「保津峡」方向です。正面の、山と山の間を下ると「保津峡」です。
正面手前が「明智越え」、その後ろ左手が「牛松山」、正面奥の方に見えるのが「愛宕山」です。亀岡市にも住宅がたくさん立ちましたね。
市内の眺望がよく気持ちのいいところです。近くに来られた時にはちょっと寄ってみてください。
アクセス
- JR嵯峨野線「亀岡駅」から、バスを利用して15分ほど。