大将軍神社(東三條社) 鵺の森

台風の受難続き…

1200年の都、京都ですが、ここしばらくは台風や豪雨の影響で災難続きです。特に古くからの神社仏閣に多くの被害が発生しています。人的な被害が軽微で済んでいるのは、これらの神社仏閣が京都を守っていてくれているからの賜物だと思いますが、天気予報によると、今週末にも近畿地方には台風が接近するとのこと。また被害が出るのではないかと危惧しています。

今日は、京都市東山区にある「大将軍神社」を紹介します。またの名を「東三條社」といいます。場所は「千鳥酢」で有名な「村山造酢」さんの南側です。

実は「大将軍神社」も台風による大風で、昨年に続き今年も被害が出てしまいました。

では行ってみましょう。

大将軍神社 No2

三条通りを歩いていると、「大将軍神社」の「社庫」にある看板が目にとまります。

大将軍神社 No3

おお、懐かしい「仁丹」の住所表示板がありましたよ。最近減ってきましたね、仁丹。「區京下」の表記が泣かせます。現在は東山区です。

大将軍神社 No4

「大将軍神社」の西側の通りから入りました。上の写真でお分かりのように、夕暮れ時です。これぐらいの光の加減が大好きです。

大将軍神社 No5

大変しっかりした字体で彫られている「大将軍神社」の石柱です。

大将軍神社 No6

駒札です。正式には「だいしょうぐん」なんですね。私たちのような古い世代は「たいしょうぐん」ということが多いです。「白梅町」にある地名は「大将軍(たいしょうぐん)」ですしねぇ。

大将軍神社 No7

神額が落下しないようにロープでくくられていますね。

大将軍神社 No8

案内板委は手書きと思しき案内図が掲示されています。ほのぼのとしますよ。

大将軍神社 No9

鳥居をくぐって左手には手水舎があります。

大将軍神社 No10

で…    なんと、おいたわしや。

大将軍神社 No11

今年の台風20号で、8月24日の未明に樹齢数百年の御神木であるモチノキが倒れて、拝殿を直撃してしまいました。

大将軍神社 No12

本殿です。この「大将軍神社」は794年の平安京造営の時に、第50代「桓武天皇」が大内裏鎮護のために、「平安京」の四隅に祭祀した大将軍神社の東南方角の一つです。また、「京の七口」の一つである「三条口」の要地になので、昔から都に邪霊の侵入を防ぐという意味で重要視されてきました。

大将軍神社 No13

正面から。

大将軍神社 No14

台風の影響か、ご神灯の提灯にも破れがあります。

大将軍神社 No15

中は大丈夫なようですね。ご祭神は「素戔鳴尊(すさのおのみこと)」です。

平安京造営時に、都の四方におかれた「大将軍神社」ですが、東はこの「東三条大将軍社」、西は「大将軍八神社」、南は「藤森神社境内大将軍社」、北は「今宮神社境内大将軍社」、あるいは「西賀茂大将軍神社」となっています。「大将軍信仰」は平安時代中期から鎌倉時代に盛んになり全国的に広まり、天皇から庶民にいたるまで多くの信仰がありました。

大将軍神社 No16

本殿の右手にある「隼社」です。

大将軍神社 No17

こちらもご神灯が破れてますね。

大将軍神社 No18

狛犬というよりは「狛獅子」といった印象です。

大将軍神社 No19

神馬の像があります。

大将軍神社 No20

立派なご由来書きの石碑です。

大将軍神社 No21

ご祭神が「素戔鳴尊」であることなどが書かれています。

大将軍神社 No22

絵馬殿です。

大将軍神社 No23

こちらは東側の入り口のところです。

大将軍神社 No24

こちらが「東三條社」なのですが… ここにあったモチノキが倒壊して拝殿に倒れ掛かったのです。

大将軍神社 No25

まだ修復には至っていません。

大将軍神社 No26

「東三條社」の正面です。「藤原兼家」が合祀されています。

平安時代の公卿「藤原兼家(かねいえ)」の屋敷である「東三条殿」は、この周辺(裏側)にあったそうです。西対を「清涼殿造」にし、西北隅には清水をたたえる小池があったとう優美な豪邸でした。「兼家」は「東三条殿」だけではなく「二条京極第」も営み、「時姫(藤原道長の母)」、「道綱の母」など9人の妻がいました。何ともうらやましいというか、やりたい放題ですね。しかし、皆に対して平等に接したわけではなく気持ちは移ろい易かったのでしょう。「道綱の母」は、「本朝第一三美人」といわれ才色兼備の人でしたが、「兼家」に疎んじられた20年の歳月を綴った「蜻蛉(かげろう)日記」の作者として有名です。

残念ながら「東三条殿」は1156年の保元の乱、室町時代の応仁・文明の乱で焼失してしまいます。「兼家」の子である関白太政大臣「藤原道長」は、父「兼家」の神像画を合祀し、東三条殿の鎮守としたのですが、それが「東三條社」の始まりです。

大将軍神社 No27

「天満宮」ですので、梅の御紋が描かれています。

大将軍神社 No28

鳥居の神額です。

大将軍神社 No29

「東三條社」のお社です。

大将軍神社 No30

きれいにお化粧されていますね。

大将軍神社 No31

ちょっと逆光で見えにくいですが「荒熊稲荷社」です。

大将軍神社 No32

こちらも平成29年10月の台風21号で御神木が倒れてお社を直撃してしまい、やっと新しいお社が建てられたばかりです。

大将軍神社 No33

この「エノキ」が倒れ掛かったのでしょう。

大将軍神社 No34

御神木といえばこの樹齢800年という「イチョウ」の木が一番大きいですね。

大将軍神社 No35

下のところは祀られています。台風で倒れたりしてしまいましたが「大将軍神社」には巨木といわれるような御神木がたくさんありました。昔は森といっていいほどの木々があったようです。

その「兼家」の「東三条殿」の森は「鵺(ぬえ)の森」と呼ばれていました。「鵺」とは、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇で、トラツグミのような不気味な声で鳴いたという架空の生き物です。

平安時代末期の武将「源頼政」の「鵺」退治の伝説も、「鵺」がこの森から出現したという風に伝わっています。「二条天皇」は、毎夜丑の刻に、「清涼殿」に現れた「もののけ(鵺)」に怯えて病いになってしまい、「頼政」が召喚されます。夜更けになり「東三条」の森から黒雲が立ち上ります。「頼政」は先祖の源頼光(みなもとのよりみつ)より受け継いだ弓を射て「鵺」を射落とし、家臣の「猪早太(いのはやた)」がとどめを刺しました。

「鵺の鳴く夜は恐ろしい…」 私にとってはとっても懐かしいフレーズです。横溝正史の最後の長編小説となった「悪霊島」の映画のキャッチコピーです...

大将軍神社 No36

本殿の左手に「神馬舎」があります。

大将軍神社 No37

中には「神馬」の像がありますよ。いつもながら、どこにピントがあってんだよっ!という情けない写真でごめんなさい。

大将軍神社 No38

その左手には「社庫」があります。この裏側に三条通りから見える看板がありました。

大将軍神社 No39

こちらは東側の鳥居です。鳥居の真ん中で倒壊している拝殿ですが、神社であっても災害に遭うのですから、我々一般人ももっと災害対策を顧みないといけないですよね。

大将軍神社 No40

こちらの入り口の石柱は、一般的な字体ですね。

大将軍神社 No41

厳かな雰囲気のご由緒書きです。駒札よりもこっちの方が雰囲気が良いですよね。

冒頭でも書きましたが、今週末には台風24号がやってきます。大きな災害が発生しないよう、都の守りである「大将軍神社」には頑張っていただきたいところです。

アクセス

  • 京都市バス「東山三条」下車、徒歩5分
  • 京都市バス「三条京阪」下車、徒歩5分

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