昔の盲人の互助組織
人間は外界からの情報の約90パーセントを視力に頼っているといわれます。この視力が奪われてしまったらどうしますか?
最近、私は老眼がひどくなってきて、今まで何不自由なく見えてきた文字が見えなくなってきました。まだ生活に支障が出ていないので大丈夫ですが、もしも視力が奪われてしまったらとっても困ります。
この「見えない」という困難は今も昔も変わりません。
平安時代、「仁明天皇」の第4皇子である「人康(さねやす)親王」は貞観元年(859年)に病気(眼疾による中途失明)を理由に出家して、法性と号します。
「人康親王」は山科の四ノ宮に山荘を造営して隠棲し、山科宮と称しています。「人康親王」は琵琶の名手で、盲人を集めて琵琶、管弦、詩歌を教えました。親王の死後、そばに仕えていた者に「検校」と「勾当」の二官位を与えたとする故事により、後の「当道座」の最高の官位は「検校」とされました。
鎌倉時代、「平家物語」が流行し、盲人によって琵琶の演奏とともに語られるようになります。
室町時代には、一方流平家琵琶の演奏家である「明石覚一(あかしかくいち)」が「平家物語」のスタンダードとなる「覚一本」をまとめました。「明石覚一」は播州書写山の僧であったのですが、突然失明し琵琶法師となった人で「耳なし芳一」のモデルともいわれる人です。天皇・上皇・親王らのための御前演奏を行うことが多かったのですが、琵琶以外にも「按摩(あんま)」や「鍼灸(しんきゅう)」の達人でもあったそうです。
「明石覚一」は足利尊氏の従弟あることから幕府の庇護を受け男性盲人の自治的互助組織である「当道座」を設立しました。「覚一」の邸宅を「職屋敷」と呼び,盲人の技芸試験・裁判・売官などが行われました。
江戸時代にも「当道座」は幕府から公認され、「寺社奉行」の管轄下に入り,全国的な盲人支配機関となりました。明治4年(1871年)の「盲官廃止令」により「当道制度」が廃止され,「職屋敷」も廃止されています。
「仏光寺通り」の「東洞院通り」を少し東に行ったところに「當道職(とうどうしき)屋敷跡」がありますので行ってみます。
京都市立「洛央小学校」の前です。
石柱と駒札が立っています。
「當道職屋敷跡」の石碑です。
「當道職屋敷跡」の駒札です。「當道職屋敷」は、「明石覚一検校」以下の位牌をまつる「清聚庵」の別称でもあります。
このような旧跡はあまりたくさん残ってないようであり、また紹介されることも少ないですが、近くに来た時には一度寄ってみてください。
アクセス
- 京都市バス「四条高倉」下車、徒歩5分