求道(ぐどう)
今回は「高辻通り」にある「道元禅師示寂の地」です。
「道元」は鎌倉時代初期の禅僧で「曹洞宗」の開祖です。「示寂(じじゃく)」とは偉いお坊さんがなくなることを言います。
「道元」といえば福井県の「永平寺」を建立したことで有名ですね。諸説はあるのですが、もともとは京都の上級貴族、「久我家」の生まれだということです。3歳で父を、8歳で母を失って、建保2年(1214年)13歳の時に比叡山延暦寺に出家します。
修行の中で、「道元」は天台宗の「本覚思想(衆生は誰でも仏になれるということ、あるいは人間はもともと仏性を具えているということ)」に疑問を持ちます。そこで延暦寺を降り、「建仁寺」に移ります。しかし「建仁寺」の「栄西」の元で修行を積んでも疑問は解決しません。とうとう「南宋」にまで渡ります。
「南宋」では「如浄禅師(にょじょうぜんじ)」に師事します。「如浄禅師」から教えられた「曹洞禅」は、ひたすら禅に打ち込むことによって内面の自在な境地を体得するというものでした。この教えにより、帰国した「道元」は 天福元年(1233年)京都深草に日本曹洞宗最初の寺院である「興聖宝林寺(興聖寺)」を開きました。
次第に名声も高まり、「孤雲懐奘(こうんえじょう)」が入門したり、「達磨宗(大日房能忍が興した禅の一派)」からの入門が相次いだりと弟子の数も増えたのですが、僧団が大きくなるなるにつれて比叡山からの弾圧を受けることとなりました。そして寛元元年(1243年)権勢を逃れ、越前国の地頭「波多野義重」の招きで越前志比荘に移転し「傘松峰大仏寺」を建立します。この寺はのちに「吉祥山永平寺」と改称されました。「道元」は「大仏寺」で釈迦正伝の仏法である坐禅の厳格な宗風を樹立します。深草にあった「興聖寺」は、残念ながら比叡山延暦寺の弾圧で廃絶してしまいます。のちの慶安2年(1649年)淀城主の「永井尚政」が宇治市に再興しています。
「道元」は、建長5年(1253年) 病により「永平寺」の住職を「孤雲懐奘」に譲り、弟子「覚念」の屋敷にて享年54歳で没します。
では、その「道元禅師示寂の地」へ行ってみます。
「高辻通り」を堀川から歩いてくると、道の北側に見えてきます。
「道元禅師示寂の地」です。住宅の立ち並ぶ一角に突然現れます。というのも、ここに「道元」が滞在した弟子「覚念」の屋敷であったからです。建長5年(1253年)病の療養のために上洛していました。しかし残念ながら病は良くならず、この地で入滅しました。
とってもシンプルな敷地の中に、立派な碑が立っています。
石票もあります。
「道元禅師示寂聖地」と刻まれています。仏道を求めて「南宋」までにも行き、人々に教義を広めた「道元」は宗教人としてはとても幸せだったことでしょう。
横に井戸があります。使われていないようですが、とっても気になります。
「道元禅師示寂の地」の駒札です。
疑問を持ち、仏道を求め、悟りを開くというのは並大抵のことではないのですが、若くして両親を亡くしていることにも起因しているのではないでしょうか。この地には碑があるだけですが、近くに来られ際にはちょっと寄ってみて、自分にとっての幸せとはなんであるか考えてみてください。
アクセス
- 京都市バス「堀川松原」下車、徒歩3分