細い細い「間之町通り」
以前紹介した「佛光寺」の南側に「高辻通り」があります。その南側に「稲荷町」という地名があります。お察しの通り「稲荷町」というからには、お稲荷さんが町名の由縁であり、そのお稲荷さんも残っています。今回はそのお稲荷さんが目的地です。
そのお稲荷さんは「焼けずの稲荷」として知られており、また、歌人である「松永貞徳」が創祀した神社でもあります。「松永貞徳」は「豊臣秀吉」の「佑筆(ゆうひつ)」を務めた人であり、俳言を使うことを広めた「貞門派俳諧」は全国に広まり、文芸として確立しました。
今回の目的の神社は「花咲稲荷神社」です。良い名前ですね。「花咲稲荷神社」の詳しい創祀や変遷は不明です。とりあえず行ってみましょう。
「高辻通り」から「間之町(あいのまち)通り」を下ります。細い道ですよ。
ほどなく右手に「花咲稲荷神社」が見えます。「松永貞徳」は64歳でこの地に移り住んだのですが、その時に邸内に鎮守社として創祀したのが「花咲稲荷神社」でした。社号は貞徳の号である「花咲亭逍遥軒」に因んで名付けています。邸宅は「花咲宿」と呼ばれ俳諧の会が催されました。
道沿いですが、マンションや住宅に囲まれて少し窮屈そうな感じです。
鳥居の左手には手水鉢があり、水が流れています。
「花咲稲荷神社」の神額です。「花咲稲荷神社」では文久元年(1861年)第121代・孝明天皇の皇妹である「
火伏せ
」が、14代将軍「徳川家茂」に降嫁する際に、「玉体安寧の祈祷」が斎行されました。「和宮様」は時代まつりの花ですね。
社殿です。まだ新しくてきれいです。
案内書きによると、明治40年(1907年)に「長谷川武右衛門」が「大道雷淵(おおみちらいえん)」より譲り受け、その妻である「於菟」が社主として神明奉仕を務め、以来、長谷川氏が神事を執り行っているそうです。
「松永貞徳花咲邸址」の石票です。
明治28年(1895年)、このあたりで大きな火事があったのですが、「花咲稲荷神社」だけは燃えずに残ったので「焼けずの稲荷」と呼ばれるようになりました。我々庶民は和歌なんかとは無縁の生活なので「松永貞徳」と聞いてもピンときませんが、「焼けずの稲荷」と聞くと「ああ、あこのことか。」と通じます。
街中の小さな神社ですが、商売繁盛、火伏せ(火防)、家内安全のご利益があります。「佛光寺」にご参拝の時には是非とも「花咲稲荷神社」にもご参詣ください。
アクセス
- 京都市バス「烏丸松原」下車、徒歩7分