殷王朝を傾けたとされる美女「妲己」
今回は私の職場の近くにある「真如堂」の紹介です。
「真如堂」の境内は、けっこうな広さがあって色々な建物や史跡、旧跡などが残っています。その境内に「殺生石」と呼ばれるお地蔵さんがあるので紹介しましょう。
「真如堂」の正式な名称は「真正極楽寺」という、なんともその名前にあやかりたいようなお寺なのですが、その中に「殺生石」などという、物騒であまり近寄りたくない名前の石でできたお地蔵さんがあります。そもそも「殺生石」というのは、その名の通り「生きているものを殺してしまう石」という怪石です。その由縁を紐解くと...
昔、『史記』の殷本紀によると「殷王朝」末期(紀元前11世紀頃)の「帝辛(紂王)」の妃に「妲己(だっき)」という美女がいました。実はこの「妲己」は「白面金毛九尾(はくめんこんもうきゅうび)の狐」と呼ばれる「9本の尻尾をもつ狐の妖怪」だったのです。「妲己」は帝辛に寵愛され、帝辛は彼女のいうことなら何でも聞いたそうです。やりたい放題に、この世の贅沢と快楽を追い求め(酒池肉林という言葉のもととなった)、ついに「妲己」は「周」によって攻められた際に「武王」により殺されたとされます。またこの処刑の際にも「妲己」は妖術によって処刑人が魅せられ首を切ることができなくなったのですが、「太公望」が「照魔鏡」を取り出して「妲己」にかざし向けると、「九尾の狐」の正体を現して逃亡しようとしました。「太公望」が宝剣を投げつけると、九尾の狐の体は三つに飛散します。その後「天竺」の「耶竭陀(まがだ)国」の王子「斑足太子(はんぞくたいし)」の妃「華陽夫人」として再び現れたり、「周」の第12代の王「幽王」の后、「褒姒(ほうじ)」となったりしたのですが、その「九尾の狐」がついに日本にやってくるのです。
「白面金毛九尾の狐」は後に「若藻」という16歳ほどの少女に化け、「吉備真備」の乗る遣唐使船に同乗し、来日を果たしたとされます。14世紀に成立した『神明鏡』では、平安時代に「鳥羽上皇」の寵愛を受けた「玉藻前(たまものまえ)」の正体が「九尾の狐」として書かれています。
「玉藻前」を寵愛した「鳥羽上皇」は次第に病に伏せるようになり、陰陽師「安倍泰成」が「玉藻前」の仕業と見抜きました。「泰成」が真言を唱えた事で「玉藻前」は変身を解かれて「九尾の狐」の姿に戻り宮中を脱走し、行方を眩まします。
その後、「那須野」で婦女子さらいなどが起こるという話が宮中へ伝わり、「鳥羽上皇」はかねてからの那須野領主「須藤権守貞信」の要請に応え、「三浦介義明」、「千葉介常胤」、「上総介広常」を将軍に、「安部泰成」を軍師に任命して討伐軍を編成し、軍勢を那須野へと派遣しました。
那須野で「白面金毛九尾の狐」と化した「玉藻前」を発見した討伐軍は、すぐさま攻撃を仕掛けるのですが、「九尾の狐」の妖術などによって多くの戦力を失い失敗に終わります。討伐軍は粘り強く戦い、次第に九尾の狐を追い込んでいきます。最期には、三浦介が放った二つの矢が脇腹と首筋を貫き、上総介の長刀が斬りつけたことで、九尾の狐はやっと息絶えました。
その後、「白面金毛九尾の狐」は巨大な毒石に変化し、近づく人間や動物等の命を奪うようになりました。そのため村人たちは後にこの怪石を「殺生石」と名付けました。「鳥羽上皇」の死後もこの殺生石は存在し、周囲の村人たちを恐れさせました。
そして南北朝時代の至徳2年(1385年)、「殺生石」は越後国の出身である曹洞宗の僧「源翁心昭(げんのうしんしょう)」によって大きな鉄製の鎚で打ち砕かれました。「殺生石」は3つの塊に割れたそうです。
これが現代に伝わる「白面金毛九尾の狐」の化身である「殺生石」の由縁です。
ここ「真如堂」にある「鎌倉地蔵尊」は「玄翁禅師」が「殺生石」から刻んだ地蔵菩薩であり、最初は鎌倉に祀られていたのですが、江戸時代に「甲良豊後守宗広」が夢のお告げに従い鎌倉から当地に遷座したものです。
真正極楽寺
「白川通り」にある京都市バス「真如堂前」で下車して向かうと、東参道から「真如堂」に入って本堂の裏側に出ます。こちらの方がバス停からは近いのですが、今回は「錦林車庫」のバス停で降りて、表参道の「山門」の方から参りました。
「真如堂」の山門から続く参詣道の階段。両側のもみじがきれいなので紅葉の時期は観光客でごった返します。でも、日頃はあまり観光客の来ない静かなお寺なんですよ。
夕暮れ前の「三重塔」です。京都らしい風景ですね。
その「三重塔」の西側に「鎌倉地蔵尊・殺生石」のお堂が建っています。
まだ新しそうな提灯が掲げられています。
「鎌倉地蔵尊」の駒札です。「心の病を治す」というご利益がありますので、精神的に疲れている方は一度お参りしてみてはいかがでしょうか。
「殺生石・鎌倉地蔵」の縁起が書かれています。
殺生石 鎌倉地蔵尊穏縁起
今から千三百年前、中国に白面金毛九尾(金色の毛に覆われ九つ尾をもつ)の狐がいて、美女に変身して皇帝をとりこにし、国を傾けさせました。しかし、やがて正体を見破られ、逃げて日本に渡りました。
狐は、日本でも「玉藻前(たまものまえ)」という美女に変身して、鳥羽上皇の寵愛を得ましたが、陰陽師安倍泰親(安倍晴明の子孫)に見破られ、東の空に飛び去って下野国(今の栃木県)那須野原に逃れました。
その後、狐の仕業と思われる出来事を幾度も耳にした上皇は、上総介と三浦介に妖怪退治を命じました。二人は神前で百日の行を行って狐退治のお告げを受け、上総介の弓の矢は見事にこれを射抜き、三浦介がとどめを刺して、首尾よく妖狐を退治しました。
その時、この悪狐の魂は石と化しましたが、なおも悪霊となって近寄る生き物を殺すので、「殺生石」と呼ばれて恐れられていました。
これを知った玄翁禅師(室町時代の僧)は、殺生石を柱杖で叩いて割り、悪霊を成仏させました。禅師は三つに割れた石片の一つで地蔵菩薩を刻み、鎌倉に小さなお堂を建ててまつりました(金槌を「げんのう」と呼ぶのは玄翁和尚に由来すると言われています)。
江戸時代当初、この像を篤く信仰していた甲良豊後守(幕府作事方大棟梁職として日光東照宮などを造営)の夢中にこの地蔵尊が現れ、自分を衆生済度の霊場 真如堂に移しなさいと告げます。備後守は、それに従って地蔵尊を真如堂に遷座しました。「鎌倉地蔵」の名は、この尊像が当初鎌倉に安置されていたことに由来します。
鎌倉地蔵は、家内安全・福寿・延命などのご利益の他、無実の罪を晴らしたり、心の病が治るなどのご利益が、信仰の深さに応じてあるといわれています。
では「鎌倉地蔵尊」のご尊顔を拝みましょう。
お堂の前まで来ましたよ。
「鎌倉地蔵尊」の扁額です。木目がなんとも妖しい雰囲気を醸し出しています。
思っていたよりも大きなお地蔵さんでした。とても立派で、細かく彫り込まれています。
「白面金毛九尾(はくめんこんもうきゅうび)の狐」は「殺生石」となり、「玄翁禅師」に叩き割られて3つになったという。そして一つは那須町の那須湯本温泉に現在も存在して毒煙を噴出しており、もう一つはここ、真如堂で「鎌倉地蔵」として、衆生救済のために鎮座していますが、もう一つはどこに行ったのでしょうか。
那須の「殺生石」は松尾芭蕉も訪れており『おくのほそ道』にもその様子が記されている昔からの妖石です。近くには「飛ぶものは雲ばかりなり石の上」の芭蕉の句碑もあります。現在は観光客が多く訪れる観光名所となっています。ただし、ガスの噴出量が多い時は立ち入りが規制されるという、本当の殺生石なんですね。もしかすると、もうひとつの「殺生石」はあなたの近くで、虎視眈々と毒煙を吐く機会を狙って静かに待ち続けているのかもしれませんよ。お~こわ。
アクセス
- 京都市バス「真如堂前」下車、徒歩15分