比叡山麓七里
今回は住宅地のはずれにある石碑の紹介です。
特にこれといった見どころは無いところなのですが、近くにある「宮本武蔵」ゆかりの「八大神社」とも関係がある旧跡なので紹介しようと思います。
かつて「舞楽寺(ぶがくじ)」という名の天台宗のお寺が一乗寺の南の方にありました。そして「舞楽寺」の鎮守社である「舞楽寺天王社」が今回の目的地です。
「舞楽寺」は創建、変遷などの詳細は不明で、室町時代には「逢客寺(ぶかくじ)」とも記されています。歴史をさかのぼること鎌倉時代、「親鸞聖人」がこの寺で「水垢離(みずごり)」を掻いたところ、「聖徳太子」の影向(ようごう)があったと伝わります。そんな「舞楽寺」でしたが、残念なことに戦国時代には廃寺となってしまいました。しかし「舞楽寺」は地名として残ります。
比叡山のふもとの七里として、「一乗寺、高野、修学院、舞楽寺、藪里、山端、白川」があり、各村には産土神としてそれぞれ神社がありました。そして、「舞楽寺」では「舞楽寺天王社」が産土神として、長い間地域の信仰を集めていました。3月5日の祭礼には他村の神輿とともに「修学院天王社」に集まり,「七里(さんやれ)祭」を行ってきました。
その後、「舞楽寺天王社(八王子社)」は明治7年3月5日(1874年3月5日 )に「八大神社」に合祀され,一乗寺村全体の産土神となりました。
現在でも、「鷺森神社」で5月4日に「宵宮祭」、5日に「神幸祭(さんやれ祭り)」が行われています。
では、「舞楽寺天王社」のあった地を訪れてみましょう。
白川通りから東に向かって歩いていきます。この辺りは少し前に開発された住宅地と畑が入り混じった感じの土地です。
見えてきました「舞楽寺八大天王社宮跡碑」です。住宅地のはずれの方にありました。
少し傾いていますね。
これを見に来る人はほとんどいないでしょう。私のような変わった人間には歴史を感じさせる旧跡なんですけど、一般の人にとっては、ふ~ん、程度なんでしょうね。
かつてこの辺りには七里があり、京都の中心からは離れていましたが、割合と力を持っていた地域です。この辺りから比叡山の山麓までは平城や山城が築かれて戦が行われた場所でもありました。現在では「詩仙堂」や「曼殊院門跡」などの観光地ばかりが取り上げられていますが、長い歴史の中ではあまり知られていない史跡、旧跡がたくさんある魅力的な地域でもあります。
アクセス
- 京都市バス「一乗寺木之本町」下車、徒歩15分