ご縁 何かの導き?
「えびす神社」というと、京都では祇園の「えべっさん(戎神社)」や「京都ゑびす神社」が有名です。「えびす神社」と名前の付く神社は摂社、末社まで入れると、それはもう数えきれないぐらいの神社が存在します。皆さんのご近所の神社にも「えびす神社」が祀られていたりはしないでしょうか。
ここで「えびす神社」について調べてみると、「えびす神社」は
「夷神社、戎神社、胡神社、蛭子神社、恵比須神社、恵比寿神社、恵美須神社、恵毘須神社」
と色々な漢字で表されています。また漢字は「蛭子神社」であっても、読みが「ひるこ神社」であることもあり、ますますややこしくなってきます。
その「えびす」ですが、「七福神」の一柱であり、一般的には「狩衣姿で、右手に釣り竿を持ち、左脇に鯛を抱えている姿」が多いですね。「七福神」ですから当然「福の神」です。
もう少し詳しく見ると、「えびす」という神は複数あり、「伊邪那岐(イザナギ)」、「伊弉冉(イザナミ)」の第一子である「蛭子命(ひるこのみこと)」か、もしくは「大国主命(大黒さん)」の子である「事代主神(ことしろぬしかみ)」とされることが多いです。また、昔は地方の民族を「えみし」や「えびす」と呼んで、「戎」や「夷」と書いたのと同様に外来の神とされることもあります。
前知識はこんなところとして、今回訪問するのは「京都市下京区」にある「蛭子神社」です。「正面通り」にあり、ちょうど「西本願寺」と「東本願寺」の真ん中辺りです。
まずは、Webで情報を探したのですが、戸が締められた状態の画像と不明、不明、不明の文字。祇園の「えべっさん」や亀岡の「蛭子神社」はいろいろな情報が出てくるのですが、今回の「蛭子神社」は詳細不明です。
で、とりあえず行ってみます。
「正面通り」を東本願寺の方から西に向かって歩いてきました。見えてきましたよ。
わかりますか。上の画像。
車の隣の建物が「蛭子神社」そのものなんですよ。
正面から見ると...
なんとまあ、狭い間口と奥に細い敷地。まさに京都のウナギの寝床ですね。
当然、駒札なんかはありません。パッと見てわかるのは...
「蛭子神社」の扁額と...
「皇紀二千六百年記念」と書かれた石碑。
あとは、消火器の箱に書かれた「蛭子水町」の文字。電気のメーターがあるので、中には電気が通っているんでしょうね。
Webで見た通り、何にもわかりません。それこそ「不明」です。
なんとか変遷を調べてみよう
図書館や資料館へ行って、文献を探してもいいのですが、あいにくそんな時間は持ち合わせていません。定年後に時間があればじっくりと取り組んでみましょう。
時間のない私はやっぱりWeb。
[1]「えびす神社」から調べる
なんのこっちゃ? と思われるかもしれませんが、世の中にこれだけ「えびす神社」があるのですから、「えびす神社」専門サイトがあるはずと考えて探してみました。
すると、「えびす宮総本社西宮神社」の「講社本部」のサイトに「全国えびす大神奉斎社一覧」という日本中の「えびす神社」を検索できるページを見つけました。このページは「神社本庁編『全国神社祭祀祭礼総合調査』(平成7年)」をもとにしているので信憑性があります。
で、京都府の一覧を見ると...
残念ながら一覧の中には「京都市下京区」には「蛭子神社」がありませんでした。とほほ...
ところが、最後の最後に「現在調査中えびす神社一覧」というのがあって、その中に
№ 270130
社名 蛭子神社
祭神名 恵美須神
鎮座地 京都市下京区梅小路頭町村社稲荷神社
備考 比定神社不詳
というのがありました。住所はけっこう近いじゃないですか。
で、「梅小路頭町」って、どこ?
Google先生に尋ねると
と、なんと、ほぼJR西日本の敷地の中ですよ。「京都鉄道博物館」のあるところです。一般人はほぼ入れない場所ですね。昔は貨物などの操車場になっていたようなところで線路がいっぱいありました。そしてなんか変な三角形の土地割り。
もしかして、ここにあった「蛭子神社」が国鉄ができたことで、移転して「蛭子水町」に移った?
こんな仮説を考えているとなんかわくわくしてきますね。
でも、それが正しいと証明できる確固とした「証拠」必要ですね。
[2]検索Wordを考える
「蛭子神社」+「京都市」+「下京区」
で検索すると、出てくるのは「不明」の文字ばかり。
で、仮説の証拠を何とか探そうと、関連したWordを色々変えて検索したところ、やっと出てきました。「蛭子神社」の創̪祀。仮説ではなくて、ほんまもんの創̪祀。
「蛭子神社」+「正面通」 で検索すると
というページを見つけました。
その中の、「蛭子水町 蛭子神社」のくだりです。
毎年10月20日は当町”えびすさん”のお祭り日。 蛭子水町(下京区)
(その一)
往昔、当町内の井戸から蛭子大御神像を戴き、全町民感激尊崇祀る。
これをご縁に、当町内では毎年十月廿日に御膳行事を奉供し崇拝する。
以後、本願寺の寺内町となり、神様を祀れず、やむを得ず、東山五条の若宮八幡へ移すも、再び時を経て元の現在地に遷宮する。
其の後、元治の兵火(蛤御門の変・1864)で社殿焼失するも、日露戦争・戦揵記念に再建、明治39年10月20日御遷座祭典が盛大に挙行された。
町名”蛭子水之 町”の由来書(寛政10年:1798)
(その二)
当町号を蛭子水町と云う濫觴(らんしょう・起源)は、往昔(おうせき)北側に酒屋あり。その家に井を掘り、己にして水涌き出でる迄堀けるに、
蛭子大御神木像埋もれるを、いただき上げて水をそそぎ、尊重し奉る。
この井水冷泉にして、みがけるが如し。されば蛭子水と申しき。
以下文省略 (京都市歴史資料館 伊藤先生通釈)
(註)別に、明治39年9月(1906)の町名由来書も有り。
(平成18年10月20日 YO記)明治維新の大火(蛤御門の変1864)にも焼けなかった、我が町内の
貴重な”文化財(古文書)”は今も当町内の蛭子神社に大切に保存されている。
現在の不動産登記簿は、
町内各戸の敷地面積の記録表示した書面資料
町内各戸の敷地面積を記録表示した道路地図
明治初期に京都府発行の地券(今の権利書)
等が基礎と成っている。
仮説は全然違ってましたけど、やっと見つけたという充実感がありま余す。
サイトの管理人さんは高齢を理由に平成27年5月17日を最後の更新としています。URLを見るとインターネット黎明期に誰もが一度は訪れたジオシティーズのHPであることがわかります。このジオシティーズも2019年3月31日でサービスを終了するので、4月1日以降は閲覧できません。最後の最後に、ぎりぎり見つけたサイトで「蛭子神社」の歴史を知ることができました。3ヶ月後なら私は発見できなかったことを考えると、何かのご縁があったのでしょう。このご縁のおかげで不明だった「蛭子神社」の創̪祀や変遷が分かり、とってもすっきりとした気持ちになれました。
Web上に個人が残すデータというのは千差万別ですが、他の人の役に立つのではないかと考えてアップしてくれている情報にはほんとに感謝します。私が欲しているのにまだ出会っていない情報がたくさんあるのでしょうが、その情報も時代の流れと共に消えていくのですから、とても残念です。
私がこうして書いているBlogも誰かのお役に立っていたら幸いです。
アクセス
- 京都市バス「西洞院正面」下車、徒歩2分
コメント
攝津名所圖會巻3に
京師四條通油小路に「蛭子宮」あり。社前に井あり。「蛭子水」といふ。今宮村蛭子宮の拜領地といふ。按ずるに、古代神役の旅宿の地ならんか。今に至ってかの蛭子水町より「地の口米」弐斗餘を神役の輩へ贈る。今宮よりは「福徳の神札」を送って謝す。此例も其はじめ久しくして知る事なし。惣して、「祇園會」には所々よりの古例多し。
という記述があり、おそらくこの蛭子水のことかと思いコメントしました。
吉村昌之 さん、こんにちは。
コメントありがとうございます。
四条油小路は少し離れた所なのですが、そのあたりには現在蛭子神社が存在しないので、もしかするとこの神社だったかもしれませんね。
あまり古書には詳しくないので、ありがたい情報です。
お気づきの点がありましたら、なんなりとコメントくださいませ。
Jun@Kyoto (ガイドブックに載らない京都)