京都の大動脈
今日は、普通の人には全然興味がわかないような建造物の紹介です。
京都市内には碁盤の目のように道路が張りめぐらされています。その中でも「~大路通り」と名の付くところは交通量のとても多い幹線道路です。京都の大動脈です。
その中の「西大路通り」に、昔々からある建造物です。
それは「西大路通り」にある、トンネルのような開削です。なぜ、開削しているのかというと上に「JR東海道本線」が通っており、また「西大路駅」という駅が鎮座しているからです。「JR東海道本線」といえば、やはり大動脈ですね。
つまり、大動脈と大動脈の交差なので、踏切を作ってJRの電車を通していると、「西大路通り」が大渋滞するのでこのような構造になっています。それこそ開かずの踏切になるでしょう。そうなると「西大路通り」は金閣寺まで大渋滞でしょうね。
場所は「西大路通り」の「八条」と「九条」の間です。
まずは現場へ。
「九条通り」から、「西大路通り」の東側の歩道を北上しています。下を潜っているのが「西大路通り」でその上が「JR東海道本線」と「西大路駅」そして、一番高いところにあるのが「JR東海道新幹線」です。
とっても古い感じがすると思います。鉄道マニアの方には、こういう高架橋駅は興味をそそられるところなのでしょうか?
この「西大路通り」を渡る歩道橋は、まだどちらかと言えば歴史が浅い方です。昔はこんなんありませんでした。
「西大路通り」に併設されている歩道部分は、そのコンクリートの状況を見ると、とても古いですね。
その歩道部分よりまだ下側に車用の道路があります。歩道には金属製の鉄柵が見えますが、元々これはなかったんですよ。低いコンクリートの手すりのような部分だけでした。道路の路面を見ていただくと、滑り止めの丸い窪みが付けられているのがわかると思います。もっと昔は、傾斜部分にもあったのですが、路面の舗装工事でこの窪みを付けなくなりましたね。コンクリートの施工時に、ゴムのO-リングを埋め込んで形を付けるそうです。昔はこの丸のことをディンプルって言ってたと思うんですけど、最近は言わないのかな。
この歩道部分も、通常の「西大路通り」の歩道よりは少し低く掘られていますね。最初に「JR東海道本線」が施設された時には、「西大路通り」はこの高さだったのではないでしょうか。雨の日にも滑りにくいような表面加工がしてあります。ちなみに、大阪方面から延伸してきた東海道本線が、「梅小路駅(大宮通仮停車場)」に到達したのが明治9年(1876年)ですから、その時にはこの構造の基礎ができたのでしょう。
「JR東海道本線」のガード下を超えて、北側に出ましたよ。
後から後から、いろいろなものが付け足されていった感じがしますね。
車の通る道路がだいぶんとなだらかな傾斜で続いてますよね。坂を上がると、もう八条の交差点です。
「JR東海道本線」のガードには「けた下高4.5m」の表示があります。大昔からこの看板です。
歩道と車道を分けている手すり部分の崩れかけたコンクリート。昔のコンクリートの特徴なのか、表面がざらざらした細かい砂の膜を張ったような感じですね。このような表面仕上げは、古い塀や公園のベンチ、プールなどでも見ることができました。あまり肌触りは良くないのですが、耐久性があったのでしょうか。
市バスも大型トラックも余裕で通れます。こうしてみると、路面の傾斜がとても緩やかなことがわかると思います。それにしても緩やかに深く掘ってますよね。
なぜかというと「JR東海道本線」の開通の後に、西大路通りに市電を通すことになったからです。このように、地面を掘り下げて線路を通すことを「開削潜過」と言うそうです。市電がパンタグラフを立てて走れる高さを確保するために、もともとあった車道よりも深く開削し、十分昇ってこれるように緩やかな傾斜にしたのでしょう。この「JR東海道本線」の部分である「西大路八条」~「西大路駅前」間は昭和14年(1939年)に開業しました
このような市電の「開削潜過」は、西大路通りの「円町」「太子道」間の「JR嵯峨野線(当時は国鉄山陰線)」、「七条通り」の「JR嵯峨野線」にもありました。この「開削潜過」の弱点は大雨の時に冠水して通れなくなることです。大雨と行かなくても、夏の夕立ちで土砂降りになったときなんかも、すごい水しぶきを上げて市電が走ってました。
小さいころはよく車の後部座席で居眠りをしてましたが、ここを通ると路面の窪みの振動ですぐに「国鉄のとこや!」と目が覚めた、自分にとってはとっても懐かしい場所です。
道路環境というのは、日進月歩でとても快適に整備されてきていますが、上に「JR東海道本線」などの、「でっかいもの」が乗っているとなかなか一筋縄ではいかないようですね。
アクセス
- 京都市バス「西大路駅前」下車、徒歩1分