不動堂明王院 まぼろしの屯所

霊石

少し前に「新選組最後の洛中屋敷跡の碑」として「不動堂(ふどんどう)村」の屯所跡のことを紹介しましたが、その「不動堂村」の名前の由来となっている「不動堂明王院」の紹介をしましょう。

こちらも京都駅の塩小路口から西に行ったところにあります。京都駅から歩いても数分の距離です。

「不動堂明王院」の歴史は古く、平安時代までさかのぼります。弘仁14年(823年)、真言宗の開祖である「弘法大師空海」が「教王護国寺(東寺)」を建立した時に、東寺の鬼門にあたる北東方向に不動尊を祀ったことが始まりだそうです。空海はこの地で「霊石」を発見し、その石にみずから「不動明王」を彫刻してこれを石棺におさめ、さらに地中の井戸深くに安置しました。

その後、寛平11年(899年)第59代「宇多法皇」は、西ノ洞院の宮殿「東七条御所(亭子院:ていじのいん)」を営むにあたり、この霊石を掘り出させようとしました。ところが、霊石「不動明王」を見たものの眼を痛め、恐れをなしてこれを果たせなかったそうです。「宇多法皇」は、勅命を出してこの井戸を封じさせ、大きな堂宇を営み、「霊石不動明王」の号を賜って、念持仏としました。

室町時代には「応仁の乱」の兵火により「亭子院」をはじめ堂宇も焼失しましたが、井戸の底に安置された「不動明王」の霊像はそのままに、再び堂宇が再建され現在に至っています。

現在の本堂は明和元年(1764年)の建立だそうです。元治元年(1864年)、「禁門の変」の兵火では、火の手は不動堂の直前まで迫ったのですが、まんとか焼失を免れたそうです。
不動堂明王院 No3

こじんまりとした印象です。真ん中の格子戸をあけると仏像などが拝めるのでしょうけど、そのすぐ左手に受付のように窓ガラスが見えているのは、なんかとても俗世間的な感じがします。上に書いたように御本尊は弘法大師空海の一刀三礼と伝える「霊石不動明王」で、井戸の底に今でも安置されて見ることはできないので、御前立として「不動尊立像」を安置しています。右脇侍として「弘法大師像」、左脇侍として「役行者像(役小角:えんのおづぬ)」が安置されています。今日は戸が閉ざされていますが、月例会の時などには拝見することができると思います。

不動堂明王院 No2

正面から見ると、ちょっと不思議なつくりになってますね。

不動堂明王院 No4

「不動堂」の扁額です。「ふどうどう」ですけど「ふどんどう」って言います。

不動堂明王院 No5

「霊石不動堂縁起」と記された由緒書きです。

不動堂明王院 No6

少し薄くなっていますが、立派な絵馬が奉納されています。

不動堂明王院 No7

こちらも古そうですね。

不動堂明王院 No8

「京都坊目誌」には「不動堂村屯所」は「堀川の東、木津屋橋の南」と記されています。「不動堂村」の地名は「不動堂明王院」から来ているでしょうし、屯所がこの近くにあったことは確かなようです。しかし詳細な場所は不明なので「幻の屯所」と言われ、上の画像のように提灯が掲げられていますね。

この「不動堂村屯所」と、もうひとつ前の「西本願寺屯所」の北集会所(しゅうえしょ)は明治6年3月(1873年)に姫路亀山の「本徳寺」に移築されて、今でも、「本堂」、「表書院」として現存し、新撰組がつけたという刀傷も残っているそうです。

この「新選組」の屯所と言い、弘法大使空海の「霊石不動明王」といい、なんとなくミステリーチックな「不動堂明王院」、是非とも参拝してください。「月例護摩祈祷会」が毎月第四日曜日の午後二時から行われているそうなので、その時がねらい目かもしれません。

アクセス

  • 京都市バス「下京区総合庁舎前」下車、徒歩1分

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