おいで (神幸祭)
京都の繁華街を走る四条通りですが、西へ西へと、どんどん行くと、やがて道が細くなり最後には桂川を渡って松尾大社に到達します。東の果てが八坂神社なので、「松尾大社」と「八坂神社」は「四条通り」を挟んで相対していることになります。どちらも有名なところなので、ガイドブックにはたくさん記事が載ってますし、私が言わなくともたくさんの人々が訪れています。
で、私は、その「松尾大社」の「御旅所」を紹介しましょう。歴史を見ていくと、「松尾大社」のような大きな神社になると「御旅所」がいくつかありました。その中の「西七条御旅所」が今回の訪問地です。
「御旅所」というのは神社の祭礼(神幸祭)において神様(ご神体を乗せた御神輿)が巡行の途中で休憩または宿泊する場所、もしくは神幸の目的地です。当然、神輿が「御旅所」に着くと「御旅所祭」が執り行われ、とても賑わいます。
「松尾大社」のホームページには
[西七条御旅所]
京都市下京区西七条南中野町 鎮座
御祭神は松尾大神で、名称の示すように松尾祭の神輿の御旅所となっております。創建は平安時代末期の史料にすでに見られ、元々は西七条地区に三ヶ所の御旅所があったのが、明治になってからは現在の地に定められました。江戸時代には幕府より二百余石の朱印地が与えられていました。
と記述があります。平安時代末期の史料には記されているのですが、創建の詳細は不明です。
神幸祭である「松尾祭」は平安時代、貞観年間に始まったそうです。この「神幸祭」は「おいで」と呼ばれ、4月20日以降の第一日曜日に行われます。そして神様は22日間ここに滞在され、21日目の日曜日に「おかえり」と呼ばれる「還幸祭」が行われます。この神幸祭には、大宮社、櫟谷社、宗像社、四之社の神輿、月読社の唐櫃の渡御(とぎょ)があります。
また、御旅所でありながら、「朱印地」が認められていて、天正13年(1585年)、豊臣秀吉により百四十五石が与えられ、徳川幕府の下でも同じ石高の「朱印地」が認められていました。御旅所が「朱印地」として認められていたというのは珍しい例だそうです。それだけ松尾大社に対する信仰が篤かったのでしょう。
江戸時代には、西七条村に大宮・月読相殿御旅所、櫟谷社御旅所、宗像社御旅所があり、四太神(四之社)御旅所は大宮御旅所の、衣手御旅所は宗像社御旅所の同域内に、その他には川勝寺村に三宮御旅所、朱雀村に惣神社の神供場が祀られていたと記されています。
明治時代に入ると、分散していた東四社の御旅所が、大宮社御旅所(現在地)にまとめられ、「官幣大社 松尾大社西七条御旅所」となりました。近代初頭まで、神仏混淆期に、北隣の「西蓮寺」と「松尾大社西七条御旅所」は同じ境内地にありました。
現代、昭和59年(1984年)「松尾大社西七条御旅所造営整備事業」により、現在の本殿、神輿庫、社務所が翌昭和60年(1985年)に完成しています。
では、行ってみましょう。
「八条通り」から「御前通り」を上がっていくと、「七条」の手前で「松尾大社御旅所」の前に出ます。
鳥居のわきにある立派な石票です。
真正面に本殿が見えます。
鳥居をくぐるとすぐ右手に「手水舎」があります。
広いですね。私一人だけなので余計に広く感じます。
本殿前にやってきました。
右手にこの御旅所の説明書きが掲げられています。
奥の方に「本社」が見えます。われながら、雰囲気をよく伝えている写真が撮れたと思います。
シンプルですね。手入れが行き届いていてきれいです。
良いお天気です。最後まで、だ~れもいませんでしたよ。やっぱり冬は訪れる人が少ないですね。ゆっくりと落ち着いて観光ができるのでありがたいです。
京都市内はいたるところに神社仏閣があります。それこそ、ガイドブックには載っていないような小さなところは、数えきれないぐらいたくさんあります。少し時間を作って、あてどなく散策するのも楽しいですよ。
アクセス
- 京都市バス「七条御前通」下車、徒歩3分