公家町
地図や上空からの写真を見ると、京都の真ん中には「御所」がで~んとありますね。大都市の真ん中にとっても広い敷地が広がっています。京都民はすべてをひっくるめて「御所」と呼びますが、ホントは「京都御苑」であり、「御所」はその一部です。
今でこそ、砂利の敷かれた大きな道と、手入れされた木々の植えられている緑地が広がる「京都御苑」ですが、昔は公家の屋敷がひしめく「公家町(くげまち)」だったのです。なので、庶民はいまでも、昔からの呼び名である「御所」を使います。
さて、そんな公家の中でも有名なのが五摂家と言われる「近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家」の5家です。今回はその中の「二条家」があった、「二條家邸跡」に行きます。
「二条家」というのは藤原氏北家の九条流で、鎌倉時代に「九条道家」の二男である「二条良実」が、二条富小路の邸宅を「二条殿」と称したのが家名の由来です。
二条家が住んでいた「二条家邸」は、江戸時代はじめには、「内裏(御所そのもの)」の南に隣接していたのですが、寛文3年(1663年)「後西院」の院御所用地が必要になったので二条家の地があてられ,二条家は現在の今出川通りの北側に移転することになりました。それ以来、江戸時代を通じてこの地に邸宅がうけつがれたのですが,明治10年に敷地西半分が,昭和21年に東半分を「同志社」が取得し,現在は「同志社女子大学」になっています。
では、「同志社女子大学」をめざしていきます。私は「河原町今出川」から歩いて西を目指しました。
「今出川通り」の北側の歩道をつらつらと歩いていると、ほどなく「二條家邸跡」の石碑が見えてきます。
「同志社女子大学」の東門の前に石柱と説明板があります。
近年建てられたので真新しい石柱です。
こちらは説明板です。ちょうどお昼なので覆うようにして写真を撮りました。
「同志社女子大学」の東門から、少し西に歩くと、歩道沿いに説明板を発見。近くで発見された井戸の遺構を移築しています。
コンデジの悲しさ、手前の木の芽にピントが合ってしまいます。う~ん。
実際は2.5mの深さまで遺構が検出されたそうですが、全部保存していると危ないので上部の60㎝だけ移築されたようです。
その横には「地下通路」の説明板があります。
この「地下通路」も移築されたものです。生垣があるので、よく見えませんね。どうしても前ピンです。「下々道(しもじもみち)」と呼ばれたそうです。この上には渡り廊下が設置されており、複数の建物間を行き来できるようになっていたそうです。
「二條家邸」が現在の「京都御苑」敷地の外に移転していたおかげで、遺構が残っていたようです。私の幼少のころには「~家」の末裔だと言って、威張っていた子もいましたが、今の世の中、そんなこと言う子供はいませんね。「ぶぶ漬け伝説」のように、いろいろと真しめやかに語り継がれる京都の話がありますが、ほんまもんのお公家さんの末裔は格が違うので、慇懃無礼なことをする人などいませんよ。
アクセス
- 京都市バス「同志社前」下車、徒歩1分