移り変わる二条城
現在の「二条城(元離宮二条城)」はメジャーな観光地で、世界遺産にも登録されています。修学旅行の学生さんから、いろいろな国の外人さんまで数多の人々が訪れています。
で、以前にも「二条城」は移転を繰り返していると書きました。サラッと書くと、
1.室町幕府13代将軍「足利義輝」の居城。「二条御所武衛陣の御構え」。
2.室町幕府15代将軍「足利義昭」の居城として、織田信長によって作られた城。二条通からは遠く離れていた。ただし平安京条坊制の「二条」(二条大路と中御門大路(現椹木通)に挟まれた地域)には城域の南部分がわずかに含まれる。義輝の「二条御所」とともに「二条」の名を冠して呼ばれるのはこのためと考えられる。
3.織田信長が京に滞在中の宿所として整備し、後に皇太子に献上した邸「二条新御所」。二条通にも面さず条坊制の二条にも属していない。二条家の屋敷跡に設けられたための呼称と考えられる。
4.天正11年(1583年)、本拠地を大坂に定めた秀吉は京都における拠点として「二条第」を構えた。「妙顕寺」を移転させその跡地に建設されたことから「妙顕寺城」とも呼ばれる。周囲に堀を巡らし天守もあった。
と現「二条城」の前には4か所の「二条城」が存在していたんですね。
で、2.と4.はすでに紹介したので、今回は1.の初代「二条城」の跡を訪ねます。
2.織田信長の二条城跡
4.豊臣秀吉の二条城跡
今回訪れる初代の「二条城」跡は、室町時代には「武衛(ぶえい)陣」といわれる邸宅があり、室町幕府の「三管領(斯波・細川・畠山)」筆頭として足利将軍家なみの扱いを受けた「斯波義将(しばよしまさ)」住んでいました。「武衛」とは、「宮中御所守護」、「兵衛府」のことで、「兵衛督」をしていた「斯波」氏の家号であり、唐名を「武衛」といったことから名付けられたものです。その後、斯波氏が相続していたのですが、「応仁・文明の乱」で焼失してしまいました。
そして跡地に、天文16年(1547年)室町幕府第13代将軍「足利義輝(よしてる)」の館「武衛陣第」が築かれ、ここに幕府を開きました。これが「二条御所武衛陣の御構え」と言われる「二条城」です。
ところが永禄8年(1565年)、「永禄の変」により、「松永久秀」と「三好義継」ら三人衆によって城が襲撃されます。「義輝」は切腹し、城も焼失してしまいました。
現在でもこの場所には、「上京区武衛陣町」という名前が残っています。
というのが、今回訪れる、初代「二条城」跡の歴史なのですが、この後もこの土地は歴史に残ります。永禄12年(1569年)、上洛した「織田信長」によって、「武衛陣第跡」に、室町幕府15代将軍「足利義昭」の将軍座所を造営します。当初は「武家御城(ぶけごじょう)」「公方之御城」と呼ばれました。これが信長の「二条城」(上記2.)です。
ま、ややこしいことは さておき、現地へ行きます。
その名も「室町通り」です。なんせ室町幕府があった通りですからねぇ。歴史的な重みは大きいでしょう。でも、現在は市内では中堅どころの通りです。「下長者町通り」から下がってきました。上の画像の「室町通り」の両側は「平安女学院」の敷地です。右側は工事をしていますね。建物の耐震工事をしているようです。なので、昨年末のクリスマスイルミネーションはなかったんですよ。今年は期待しています。
で、通りの左手にご注目。移りが悪いので見えにくいですが。向こうの方に石票と案内板があります。
ここですよ。建物の入り口の真横です。
とても立派な案内書きがあります。
この石票と案内板があるのが「平安女学院中学校高等学校」で、工事をしていた側が「平安女学院大学」です。「足利義輝邸」は両方にまたがっていました。「女学院」という言葉は、男子校に通っていた昭和のおっさんには刺激がきつすぎます。実際ここで写真を撮るのもはばかられます。変質者としてつーほーされないかとビクビクものですよ。
石票には「此付近 斯波氏武衛陣 足利義輝邸 遺址」と両者が刻まれています。
「斯波氏武衛陣・足利義輝邸遺址」の案内書きです。
維新後の明治28年、この「武衛陣・旧二条城」跡地に、平安女学院が大阪の川口居留地より移転し、今日に至る。平安女学院の英語名であるセント・アグネス・スクール(St.Agnes’School)のセント・アグネスは、紀元305年ローマ皇帝の迫害により13歳のうら若き身をもって殉教の死を遂げた少女の名前である。その後、セント・アグネスは全世界の信徒より「少女の守護聖人」として崇められている。
守護を司った斯波氏武衛陣と守護聖人アグネスを校名として揚げる平安女学院は、奇しくも同じ場所に建てられている。
うまくまとめていますね。
南北朝の動乱を引きずっていた室町幕府は最初こそ勢いがあったのですが、衰退が著しく、将軍が幕府を追われたり、暗殺されたりと歴史的には話題に尽きない幕府です。京都市内の中心部には応仁の乱以前の史跡はあまり残っていませんが、周辺に行くと当時の文化を垣間見られる旧跡は残っています。歴史書を片手に散策するのも楽しいですよ。
アクセス
- 京都市バス「烏丸下長者町」下車、徒歩4分