尾上松之助胸像 目玉の松ちゃん

またまた 葵公園

そういえば、先日紹介した賀茂川三角州の「葵公園」で、まだ紹介していないものがありました。

今の世の中で、「目玉」というと、鬼太郎の目玉親父ぐらいしか思い浮かばないのでしょうが、すこし昔には「目玉の松ちゃん」と呼ばれる役者さんがいたのです。活動写真の時代に活躍した「尾上松之助」という人なんですけど、ぎょろぎょろとする大きな目玉が印象的だったので「目玉の松ちゃん」との愛称で親しまれたそうです。その「尾上松之助」氏の胸像が「葵公園」にありました。

「尾上松之助」は本名「中村鶴三(かくぞう)」と言って、明治8年(1875年)生まれで岡山出身の歌舞伎役者、映画俳優、映画監督です。日本映画草創期に活躍した「時代劇スター」であり、日本初の「映画スター」といわれます。

父親が遊郭地の西中島町で貸座敷業を営んでいた影響で、幼いころから遊芸に親しむようになります。そして家の近くにあった「旭座」という芝居小屋があり、そこに来ていた上方歌舞伎の大立者・二代目「尾上多見蔵」一座と懇意だった縁で「多見蔵」に請われ、5歳の時に初舞台を踏んでいます。9歳頃から子供芝居に出演するようになり、小学校の高等科を卒業後は一座を率いて岡山市を中心に旅興行をしていたのですが「牧野省三」にかわれて、京都の「横田商会撮影所」に招かれます。「横田商会」は「日活」となり、映画は大衆文化として定着していきます。「松之助」は毎月9本の作品を撮らなければならないという、休む暇もないハイペースで活躍し、生涯1000本以上の映画を撮りました。

ここまでは、「映画スター」としての「目玉の松ちゃん」ですが、彼にはもう一つの違った顔がありました。それは社会福祉事業に多額の寄付金をしたことです。大正14年、京都府へ1万3千5百円の寄付をします。京都府は彼からの寄附金を基に京都市南区に低所得者を対象にした小住宅20戸の府営住宅を建設しました。この住宅の入居者は、経済力が回復すると新たな入居者と交替するなど、40年にわたり恵まれない人々に尽くし「松之助出世長屋」と呼ばれるようになりました。その他に京都市へ1万円、京都府小学資金へ1万円、海員救済会に5千円、赤十字社へ3千円、その他合わせて約5万円の寄付を行ったとのことです。

それでは、「葵公園」をもう一度紹介しましょう。

尾上松之助胸像 No2

出町柳の賀茂川にある三角州の北側にあたります。賀茂川沿いの方に「葵公園」があります。木が生い茂っていますね。

尾上松之助胸像 No3

きれいに整備されています。

尾上松之助胸像 No4

でも、木が生い茂っているので、ちょっと暗い感じがして、なかなか中に入ろうという気にならないですね。

尾上松之助胸像 No5

「葵公園」に入ってすぐに「尾上松之助」の胸像があります。

尾上松之助胸像 No6

なんか、思っていたのとちょっと違うんですけど。まぁいいか。

尾上松之助胸像 No7

もうすこし役者さん風の胸像かと思ったのですが、やはり社会福祉事業の功労者としての彼を表現しているので「目玉の松ちゃん」ではなくて「中村鶴三」の胸像なんですね。

胸像の台座の裏には

尾上松之助(本名中村鶴三)氏は、目玉の松ちゃんの愛称で親しまれた時代劇俳優の先覚者であった。この像は、氏が社会の福祉につくされた数々の功績をたたえるとともに、その精神である平和な社会を念願して建造したものである

と刻まれています。

「尾上松之助」は大正15年、彦根ロケ中に倒れ、堀川丸太町上ルの自宅で心臓病のため50歳で死去しています。「映画スター」として時代を駆け抜けた「尾上松之助」ですが、過労がたたったようです。墓所は「等持院」にあります。

葬儀は「日活」の社葬とされ、京都府知事をはじめ5万人が参列し、葬列を沿道で見送る市民は20万人にも及び、大群衆のため路面電車も立ち往生したそうです。1000本もの映画を撮ったのですが、現存するのはごくわずかだということで、往年の名俳優を拝むことはかなわないようですが、松之助にとってはほんとに充実した人生だったでしょう。

アクセス

  • 京都市バス「出町柳」下車、徒歩5分

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