受戒とは本来生前に受けるもの
今回も平氏に関する史跡です。
場所は「油小路八条」の交差点なんですけど、わかりやすく言えば「堀川八条」ですかね。
「油小路通り」はJR東海道本線の高架の北側では「堀川通り」の一本東に並走する小路です。高架のところで、両者が寄り添うように合体して高架の南側では「油小路通り」となってます。
観光で京都に来る人は、JR東海道本線よりも北側をめぐることが多く、「堀川」は目にすることがあっても、「油小路」はあまり気に留めないと思います。反対に、京都市内を車で移動する私たちにとっては、南の方の大きな道として「油小路通り」はとってもメジャーな道なんですよ。
そんな「油小路八条」にある「平重衡 受戒之地」の石票を見に行きます。
「平重衡」といえば「平清盛」の五男で、「三位中将」と称された人です。平氏の武将の中でも有名な人で、各地で戦い、南都焼討を行って東大寺大仏や興福寺を焼失させたので、悪名がとどろいていますが、実際には教養が高く、人のために心遣いができる人物であったようです。
残念ながら重衡は、「一の谷の合戦」で源氏の捕虜となってしまいます。鎌倉へ送られたのですが「源頼朝」は重衡の器量に感心して厚遇しています。しかし東大寺や興福寺焼き討ちの罪を問われ,南都衆徒の要求で奈良へ引き渡され木津川畔で斬首されてしまいます。「源頼兼」の護送のもとで鎌倉を出立したのですが、一行が妻の「輔子」が住んでいる「日野」の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、涙ながらの別れの対面をしました。処刑の後、「輔子」は重衡の遺骸を引き取り、荼毘に付して「日野」に墓を建てています。
「平家物語」巻十によれば,重衡は一の谷から京都へ護送され,堀川八条にあった「藤原家成」の御堂に幽閉されます。この御堂で重衡は、やはり自分の死後が心配であり「来世で助かる道はあるのか。」と思い悩み「浄土宗」の開祖である「法然上人」との面会を望みます。願いがかない重衡は「法然」から戒を授けられたと記されています。
「油小路八条」の交差点です。上に見ているのは近鉄(近畿日本鉄道)京都線のガードです。
目的の石票は、交差点にある某ファミリーマートの真ん前にありますよ。
「平重衡 受戒之地」の石票です。
まだ新しい石碑ですね。
このあたりは、昔「八条堀川の御堂」と呼ばれたところで、法然上人が平重衡に浄土宗の至極を授けられた地である。
「法然上人と重衡受戒」の駒札です。
法然上人と重衡受戒
平家物語巻十の「戒文」に、一の谷の合戦にて囚われの身となった平重衡が、鎌倉へ送られるまで、八条堀川の御堂に居えられたとある。
その時、重衡は法然上人に会って死後のことを相談したいと、守護にあたる土肥次郎実平へ願い出た。
その願いに応え、られ法然上人は八条堀川の御堂に居る重衡のもとへ赴かれ、浄土宗の教えを説かれ、戒を授けられたのである。
これが浄土宗の宗教教誨のはじまりである。
浄土宗教誨師会
南都焼討については、どうも重衡が思っていた以上に火災が広がり、意図していなかった東大寺大仏や興福寺の焼失という結果になったようです。戦さなので、火を放つのは基本戦術なのでしょうが、意図しない大火で多くの人の命を奪ったことも、後々まで悔いていたようです。
アクセス
- 京都駅八条口から徒歩5分