骨肉の争い
今回は「源為義」の墓にお参りします。場所は京都市下京区の七条通りにある七条商店街の中です。商店街の中というと語弊があるかもしれませんね。商店街から横に入った路地の一角です。
この路地のどん突きは「権現寺」というお寺で、もともとは京都の中央卸売市場の南、京都市下京区朱雀同ノ口町(新千本通七条の角)のにあったのですが、明治時代後半の山陰本線の施設や「京都停車場(京都駅)」の拡張に伴って、「源為義」の墓と一緒に強制的に現在地へ移転されました。
さて、「源為義」という人、歴史好きの人でないとどんな人だったかということは、すぐにはぴんとこないでしょうね。「源」と付くので「源氏」であることは明白ですが、「為義」といっても、はてさて、「頼朝」の親戚か?ぐらいだと思います。私も詳しくは知りません。
ちょっと調べてみると、「源為義」は「源義朝」の父親であり、みなさんご存知の「源頼朝」からすると、祖父にあたる人です。
「源為義」は祖父である「源義家」を継ぎ「河内源氏」の棟梁となりました。六条堀川に邸宅を構えていたので「六条判官」と呼ばれていました。「判官」とは「四等官制」での3番目の地位で左衛門府の判官である「左衛門大尉」と「検非違使」を兼ねていたそうです。けっこうな地位まで上り詰めていたんですね。
ところが、本人も郎党も狼藉ものだったようで、朝廷から見えないところでは自分勝手、好き放題をしていたようです。当然、うわさが流れてしまい、朝廷からも信頼を得続けることはできませんでした。なんとか地位向上をしようと朝廷にすり寄る為義ですが「鳥羽法皇」崩御の後、権力争いの戦いに巻き込まれます。崩御の後、皇位を争って「後白河天皇」と「崇徳上皇」が対立し、取り巻きの公家や武士同士の対立も合わさって、保元元年(1156年)に「保元の乱」となって武力闘争が勃発します。
われらが「為家」は「崇徳上皇」方につきます。「崇徳上皇」は「鳥羽法皇」の第一皇子で、左大臣「藤原頼長」、「平忠正」らがつきます。
対する「後白河天皇」は「鳥羽法皇」の第四皇子で、関白「藤原忠通」、「源義朝」、「平清盛」らがつきます。
ここで、「源義朝」は「源為家」の長男、「平忠正」は「平清盛」の叔父という関係で、後世の歴史ではどちらが滅んでも「家」は残るという解釈になりますが、そらもう親戚や親子なので骨肉の争いですね。
兵力的には「崇徳上皇」側は私兵が多くて弱小だったそうです。ダメじゃん、為家。
で、最初に武力衝突が勃発したのが「白河北殿」。「平清盛」を筆頭とした「後白河天皇」がたが夜襲をかけます。軍勢としては「後白河天皇」方がはるかに優勢でしたが、すぐに落とすことはできません。しかし「白河北殿」の西隣にある「藤原家成」邸に放った火が「白河北殿」に延焼すると、「崇徳上皇」方は総崩れとなってしまいます。
行方をくらました「崇徳上皇」でしたが、出家して出頭します。その後、鳥羽から船で讃岐国へ配流となり、讃岐の地で崩御します。
崇徳上皇方についた平家では「平忠正」も投降するのですが、罪名宣旨が下り六波羅で「平清盛」に処刑されます。
で、敗戦した為家ですが、同じく出家して長男の義朝を頼ります。義朝は助命嘆願を朝廷にするのですが容れられません。「清盛」も叔父の「忠正」を処刑したのですから、抗うこともできず、朝廷の命で5人の子らと共に船岡山で義朝に斬首されました。
「保元物語」の中では「朱雀野(七条朱雀)」で斬首され「北白河円覚寺」に葬られたと記述されています。また「愚管抄」では東寺、羅生門のあたりの「四塚」であると記述があります。当時、七条朱雀から四塚あたり一帯が葬送地であって、同時に処刑場所として使われていたということでしょう。しかし、同時代の資料である「兵範記(平信範の日記)」では義朝の弟である、頼賢・頼仲・為宗・為成・為仲らと一緒に船岡山付近で処刑されたと記述されているので、こちらの方が正しそうです。
では、行ってみましょう。
七条七本松から、七条通りの南側の歩道を東に向かって歩きます。
と、七条商店街のお店とお店の間に細い路地があって、「源為義公墓」「清光山権現寺」と石柱が建っています。入ってみましょう。
路地の真ん中あたりに、コンクリートの塀があります。
門が閉められていて中には入れませんが、ここが「源為家」の墓です。
「六条判官源為義公塚」の石標が建ってますね。
五輪塔が見えます。墓前までいけませんが、ここで手を合わせましょう。骨肉の争いの結果、息子五人とともに船岡山で長男に斬首された為義、武家台頭と出世のためと言え、なんとも壮絶な仕打ちが返ってきてしまいます。
説明書きがありますが、字が細かくて読めませんね。
平清盛は、義朝に為家と5人の息子を処刑させるために、叔父である「平忠正」を自ら処刑したということですが、その平家も「義朝」の子らである、「頼朝」に滅ぼされてしまいます。
源氏ゆかりの塔があちこちにあります。巡ってみるのも面白そうです。
移設碑です。権現寺とこの墓が、1912年に現在地に移された経緯を記しているらしいのですが、読めません。
顕彰碑も建ち、静かに世を見つめる為家の墓。朝廷や摂関家の中での争いから起こった戦の顛末とはいえ、実子に父親や兄弟を斬首させる朝廷というのは、なんとも陰惨な人間の集まりだったのでしょうか。こんなことを繰り返しているので、もともとは朝廷に利用されていた武士の台頭を許し、700年にもわたる武家政権の樹立によって、逆に朝廷は良いように利用されるだけのものとなってしまったのでしょう。
権現寺
路地の奥は「権現寺」です。「朱雀権現堂」、「朱雀地蔵堂」とも呼ばれてきました。
「権現寺」と聞くと、「~権現」というのをよく聞くので、どこにでもありそうな名前だと思ってしまうのですが、このお寺にはちょっとした逸話もあるのですよ。
山号は「清光山」、院号は「成就院」と言います。このお寺、創建の詳細や変遷は不明ですが、説話「山椒太夫」では「厨子王丸」が丹波街道より「権現堂」に逃げ延びたという設定になっています。
昔、「権現寺」は「山陰街道」の起点にありました。江戸期の絵地図では、ちょうど「お土居」のすぐ外に描かれており、交通の要衝だったことが説話の舞台になった一因でしょう。
路地の奥に進んでみましょう。
残念ながら、今日は門が閉まっているようですね。
山門には「浄土宗 清光山 成就院 権現寺」と表札がかかっています。
山門から中をのぞきます。
本堂やそのほかの御堂も見えますね。参拝したいのですが、仕方ありません。「山椒大夫」は説話なので、実話ではないのですが、「山椒大夫」に登場して、厨子王丸を槍の一撃から守った「身代り地蔵」や、厨子王丸が身を隠した「葛籠(つづら)」の断片といわれるものが残っています。これらには災難除けのご利益があるそうですよ。ほんとに一度見てみたいです。
山門の横にある石仏。最近この石仏をあちこちで見かけるのですが、同じものなのでしょうか。大きいものから小さいものまで、大きさはいろいろありますけど。
源平の物語も栄枯盛衰の復讐物語ですけど、「山椒太夫」の安寿と厨子王丸も復讐物語ですね。偶然の一致でしょうか。
「山椒大夫」をご存じでない方は「森鴎外」の書いた「山椒大夫」がありますので、一度読まれてみてはいかがでしょうか。また、映画監督の「溝口健二」は、映画「山椒大夫」(1954)で、ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を獲得しています。
ここも、メジャーな観光地にはならないのですが、歴史の中に名前を残しているところです。
アクセス
- 京都市バス「七条七本松」下車、徒歩2分