老いてはますます壮(さかん)なるべし
今朝の京都は曇り空で、時々しとしとと小雨が降っています。この後、雲が通り過ぎると明日にかけて天気が良くなるようですね。季節がら、外出したくなる時期なので、今日は仕事を頑張って、予定がこなせたならば明日は山に登るか、街中を散策したいと思います。
で、街中散策で思い出した史跡を紹介します。
四月上旬に、堀川通りの八重桜を見に行きましたが、その時に通った、「伊藤仁斎宅跡」です。
場所は堀川下立売の交差点から「東堀川通り」をほんの少し上がったところです。
私は東堀川通りを北の方から桜の写真を撮りながら歩いてきたので、いきなり「伊藤仁斎宅跡」の出くわしました。駒札や石票が建っているのですぐにわかりますね。
正面からです。一般公開などはされていませんが、「伊藤仁斎宅(古義堂)跡ならびに書庫」として国の史跡に指定されています。
一緒に建てられていたのが「京都市指定保存樹 クロマツ」の案内板。
古義堂は伊藤仁斎が生家に創設した儒学の私塾です。「見越しの松」に仕立てられたこのクロマツは、建物の雰囲気によく調和しています。
と書かれています。
確かに、後ろの土蔵や手前の塀と良く調和していますね。この土蔵が書庫なのでしょうか。このクロマツは伊藤仁斎の手植えです。
植ゑおかん庭の老松年を経ばわれをも忍ぶ人もこそあれ
と詠んだそうです。
「史跡 伊藤仁斎宅址並書庫」の石票です。
「伊藤仁斎」は寛永4年(1627年)この地に生まれた江戸時代前期の儒学者・思想家です。仁斎は古義学を提唱し、朱子学の「理」の思想に反して、「情」を極的に価値づけした実証主義的な方法を用いています。案内書きにあったように「古義堂」は仁斎が生家であるこの地に開校した私塾であり、長子の「東涯(とうがい)」以下、代々その子が跡を引き継いで、別名「堀川学校」とも呼ばれました。
仁斎は宝永2年(1705年)に79才で亡くなるまで約40年間、古義学の教授に努め、その門下生は仁斎が数えただけでも3,000人を超えたそうです。長男東涯は父の学問の紹述に努めたので、「仁斎、東涯」の学派は「堀川学派、古義学派」と呼ばれて、全国各地から学徒が集まりました。仁斎の子孫は永く学派を伝え、寛文2年(1662年)から明治39年(1906年)に至るまで実に244年もの間に及びました。
さて、そんな仁斎ですが、結婚したのは40歳を過ぎてからで、1男2女をもうけたました。しかし、仁斎52歳のときに妻に先立たれます。その数年後に再婚したのですが、どうも何かに目覚めたようで、更に4男1女をもうけています。末子で五男の「蘭嵎(らんぐう)」が生まれたのは仁斎が68歳の時でした。すごいですね。3,000人以上もの塾生に教授したのもすごいですが、これにはびっくりしてしまいます。東涯をはじめ5人の男子は皆、優れた儒学者となっています。妻に先立たれるなど悲しいことや苦労もあったのでしょうが、よい人生ですね。
堀川を挟んで対岸には山崎闇斎が「闇斎塾」を開いていますので、こちらの方も紹介しましょうね。
アクセス
- 京都市バス「堀川下立売」下車、徒歩2分