都城六勇士殉難記命碑
今日紹介するところも、絶対ガイドブックには載ってないだろうと太鼓判を押せるところです。
場所は京都市南区、JR東海道本線脇なのですけど、滅多に人が行かないようなところです。だって、周りになんにも無いもん。周りにあるのは住宅や小さな町工場などで、「京都の町のはずれ」といった感じのところです。
近くのバス停は16号系統の「八条中学校前」なのでしょうけど、本数が少なそうなので、九条通りの「九条七本松」から歩いたほうが交通の便は良さそうです。
私は「西大路通り」から東に向かって、JR沿いにぽちぽちと歩きました。
JR沿いはこんな感じです。高架の上はJR東海道新幹線です。車もあまり通らない住宅や町工場の連なるところです。
ほどなく「蓮華寺」の門前です。この中ではないのでもう少し先(東)まで歩きます。
通り過ぎてすぐに墓地が見えてきます。
墓地の入り口です。
「狐塚墓地」と掲げられています。
反対の左側には「明治維新 都城六勇士之墓 在」と石票が建っています。古い石票ですね。
石票の側面です。昭和11年に建てられています。
ま、とりあえず入ってみましょう。
そんなに広い墓地ではないのですが、歴史を感じさせる古い墓石がたくさんあります。
そんな中で、見つけましたよ。「都城六勇士殉難記命碑」です。
その横には「都城六勇士之墓」が連なってあります。
他のBlogの写真では、字が見えないほどに崩れている墓石でしたが、近年新しく作り直したようですね。
さて、「都城六勇士」とは?
大政奉還が行われ、王政復古の大号令が出された後の京都は、徳川方の家臣や佐幕派の者と新政府側の武力衝突がいつ起こっても不思議ではない緊迫した状況でした。そんな中、薩摩藩「都城郷」から上京した薩摩藩兵は大坂から移動して伏見の警備をしていました。
伏見は交通の要所であり、徳川方の伏見奉行所や新選組の屯所がある場所だったので、新政府側としても押さえておきたい場所であったことでしょう。慶応3年(1868年)12月21日夜、斥候に出た都城隊の6名が、伏見奉行所から出てきた数十人の武装兵に遭遇しました。6名は衝突を避けようとしたのですが,追跡されて銃撃を受けます。本隊に戻りこのことを報告したのですが、都城隊は東寺に陣を移されてしまいます。都城隊の6名は、この移動を戦闘を避けたことに対する処罰だと解釈し、東寺執行「阿刀慶増」宅で切腹をしてしまいます。阿刀氏は6名の死を憐れんで狐塚墓地に葬りました。阿刀慶増も跡を追うように切腹して死去しました。
後に、戊辰戦争を戦った同志たちがこの碑を建てて6名の勇士の霊を慰めています。
色々なところで、それこそいろいろな戦いがあって、維新という出来事から近代日本が生まれるのですが、人知れず歴史の中に埋もれてしまいそうな悲劇の跡が、現代の片隅に静かに顕彰されています。近くを通ることがあったら、遠く故郷を離れて二度と郷里には帰ることができなかった6人の菩提を弔ってください。
アクセス
- 京都市バス「八条中学校前」下車徒歩4分