綱敷行衛天満宮 道真公の通った道

こここそ、由緒正しき御霊社

今日は「綱敷行衛天満宮」です。読めませんよね。「つなしきゆきえ天満宮」です。

場所は七条御前上ルです。「御前(おんまえ)通り」という通りに面しているんですけど、この「御前通り」というのがすごい通りで、北から「北野天満宮」、「綱敷行衛天満宮」、「吉祥院天満宮」と、京都では有名どころの天満宮が連なっているんですよ。ほんでもって、なんで「御前通り」かというと、平安時代は「西大宮大路」やったんでど、「北野天満宮」の門前の通りなので、時代の流れとともに「御前通り」と呼ばれるようになったんです。この「御前通りは、菅原道真が居住地であった「吉祥院天満宮」と右近の馬場があった現在の「北野天満宮」を行き来するときに通った道だと言われています。

「綱敷行衛天満宮」は「松尾大社」の境外末社で、ご祭神は「菅原道真公」です。

京都市バスでは「七条御前通」が最寄なのですが、私は南の方から「御前通り」を歩いてきました。

綱敷行衛天満宮 No2

「御前通り」を上がってきて「七条御前」の交差点です。

綱敷行衛天満宮 No3

「七条御前」を通り過ぎて、「御前通り」をもう少し上がります。と、見えてきました。

綱敷行衛天満宮 No4

「綱敷行衛天満宮」です。

綱敷行衛天満宮 No5

「御前通り」沿いの(西側の)鳥居です。

綱敷行衛天満宮 No6

これは南側の鳥居です。こちらが本殿の正面になります。

綱敷行衛天満宮 No7

「綱敷行衛天満宮」の石票です。

綱敷行衛天満宮 No8

ちょっと変わった模様が入った鳥居の神額です。

綱敷行衛天満宮 No9

敷地の南西の角には手水舎があります。

綱敷行衛天満宮 No10

本殿です。敷地は石やコンクリートで覆われていて玉砂利はありません。管理が大変なんでしょうね。

綱敷行衛天満宮 No11

本殿には「梅鉢紋」の瓦が。

綱敷行衛天満宮 No12

本殿なんですけど...

綱敷行衛天満宮 No13

「覆屋(おおいや)」になっているんですね。中に鎮座してました。

綱敷行衛天満宮 No14

周りに、パイプいすや段ボール箱があってちょっと雰囲気ぶち壊しなんですけど、ここだけ見ると、とんでもなく厳かな佇まいですね。

綱敷行衛天満宮 No15

覆屋の外に案内書きが貼り付けられています。この手作り感が庶民的で好感が持てます。

綱敷行衛天満宮 由緒書

祭神 菅原 道真 公

由緒

網敷天満宮・行衛天満宮 弐社に別れ、共に古来、西七条村に奉斎せられしを、昭和九年合弁をなし現地に鎮座したるものにして、網敷天満宮に関する古記録によれば、付近に高さ数十丈、枝葉四方に繁茂し 山の如く見ゆる榎あり、世人 榎の森と称したり、この森の傍らに広大な菖蒲池あり、四季を通じ花絶えざる景勝の地たり。乳母文子七条村より出て仕うを以て道真公には白太夫なる者を随え、しばしばこの地に遊び、この森を閑静の勝地と称し、別荘を建て、菖蒲池にて御舟遊あり、里人の調進せし網を船網として慰み、或はこの船寄の網を円座としその上に座し、詩歌を詠み給いしが里の童これを真似せしかば、さても優しき童なり、其程 我を尊む事なれば我が姿を残し置かむと、網敷の御像を自ら描きて、その父子に与えたり。後 冤罪の為 筑前に下らせ給いても、帰洛の勅命なき身の 京洛を思いて先に里人に与えし、画像を形見となし榎の森に祀るべしと、白太夫に命じて文子に告げらる。父子小祠を建てんとせしも、公を憚り、為し得ず討ち過ぎたりしに、或夜夢に「この地に来るとも身を入るべき宿なし。疑はずして我が住居を作るべし」と託宣あり。遂に一字を建立す、榎寺と名づけ広大なる地域を有し、霊験顕著なり。

当社 掲額 [由緒書] より

また、

菅原道眞を祀る旧村社。綱敷天満宮は洛陽天満宮二十五社の一で、その由緒を「山州名跡志」は「伝不詳、按ズルニ綱敷トハ菅相公筑紫ニ遷リタマフ時、博多ニ於テ船ヨリ上リ玉ヘルニ、御座無フシテ船ノ綱ヲ敷テ御座トナス、此時一夜ニ於テ白髪ト成玉ヘリ、世人其御相好ヲ図シテ綱敷像トモ、一夜白髪ノ御影トモ云フ也、其神像ヲ安置スル故ナル歟」と記す。
行衛天満宮は靱負天満宮とも記され、名称の由来を「山州名跡志」は「此宮ノ前南北ニ通ル路アリ、是ヲ靱負通ト号ス、仍テ号ルナリ」とする。「北野天神縁起」には、天慶五年(九四二)西京七条に住む「賤女にあや子といひける者」に、北野の馬場に社を建てよという菅原道真の託宣があり、しばらく自宅に祀ったが、天慶九年に北野に社殿を移したとあるが、その多治比文子の旧宅にちなんだものと社伝はいう。現在は綱敷天満宮に合祀される。

とも書かれています。掲示されていた文相の印刷が見にくかったので、間違っていたらごめんなさい。

綱敷行衛天満宮 No17

「多治比文子」にあった宣託について。

綱敷行衛天満宮 No16

「綱敷行衛天満宮」とは関係がないのですが、現在伏見区の淀にある「京都競馬場」は大正時代ごろまでこの辺りから北の方にありました。火事で焼失して移転し、最終的に淀になったとのことです。

さて、境内を見てみます。

綱敷行衛天満宮 No18

詳しくわからないのですが「辨財天社」ではないのでしょうか。

綱敷行衛天満宮 No19

境内末社です。

綱敷行衛天満宮 No20

「白太夫大神」「末吉大明神」が祀られています。

由緒書きにも書いてありましたが、「綱敷行衛天満宮」は昭和9年(1934年)に「綱敷天満宮」に「行衛天満宮」が合祀されて、現在の社名になったとのことです。

「綱敷天満宮」の創建の詳細や変遷については不明です。「綱敷天満宮」という社名の神社はたくさんあるようですが、そのいわれは、平安時代、昌泰4年(901年)「菅原道真公」の大宰府左遷の時に博多に上陸したのですが、敷物がなかったので道真公のために船の綱を敷いて御座としたことから「綱敷」の社名になったそうです。それとは少し違うのですが、ここの「綱敷天満宮」は道真公がこの地にあった菖蒲池で、しばしば御舟遊をし、里人の用意した網を円座としてその上に座し、詩歌を詠む姿を自ら描いて残したことが「綱敷天満宮」の由緒になっているとのことです。

「行衛天満宮」はもともとは、現在地よりももっと西の方にありました。この「行衛天満宮」は道真公の乳母である「多治比文子(たじひのあやこ)」の家に因んで創祀されたそうです。文子の家は、当時の「右京七条二坊十三町」にあり、「西靱負(にしゆきえ)小路七条」ということですから、現在の「七条通西大路西入ル西七条北衣田町」のにあたります。この「西靱負小路」の面していたので「行衛天満宮」と呼ばれるようになったそうです。

道真公の死後、「多治比文子」は「われを右近の馬場に祀れ」との道真公の託宣を受けたのですが、文子は貧しく、社殿を建立することができず、右京七条二坊十三町の自宅に小さな祠を建てて、道真公を祀ったといわれています。この「小祠」が「文子天満宮」の起こりで、天神信仰発祥の神社、また「北野天満宮」の前身ともなるのですが、「行衛天満宮」としても現代まで存続していたんですね。

現在は松尾大社の境外末社として管理されているようですが、北野天満宮の始祖とも言っていいのではないでしょうか。平日は神主さんもいらっしゃらないようで、ご朱印いただけないのですが、近くに来られた際にはご参詣ください。

アクセス

  • 京都市バス「七条御前通」下車、徒歩2分

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