日本最古の公許花街
四月の上旬に訪れた「島原」の中から「大門(おおもん)」を紹介します。
四月上旬と言えばちょうどソメイヨシノが満開でとってもきれいな時でした。訪れた当日は、天気も良くぽかぽかと温かい小春日和で、幸せを感じさせる一日でした。
さて、私が訪れた「島原」は江戸時代からの建物が残っている京都の花街なんですけど、「島原」という名称はもともと京都にはありませんでした。京都の南の方に行けば、昔は「巨椋池(おぐらいけ)」と呼ばれる巨大な池(というより湖)があったので「島」のつく地名もありますが、京都市内の市街地で「島」のつくような地名はめったとありません。不思議ですよね。
私は「七条通り」の方から上がってきました。住宅が立ち並ぶ地域が多いです。
ちょっと名の知れた「きんせ旅館」さんです。夕方から、カフェ・バーもやってるそうです。
お庭の桜がきれいでした。
お天気後良いので、余計にきれいに見えますね。
ちょうど満開でした。
さて、やってきました「島原 大門」。実は裏側(内側)です。
「京都市登録有形文化財」の銘板が取り付けられています。
これが「島原 大門」の表側(正面側)です。この門は東門に当たります。
「島原」についての駒札があります。
島原
豊臣秀吉が京都を再興するに当たり、二条柳馬場に柳町の花街を公許したが、これが後に六条坊門(現在の東本願寺の北側)に移され、六条三筋町として栄えた。その後、京の町の発展に伴い、寛永十八年(一六四一)、市街地の西に当たる当時の朱雀野に移った。正式名称は西新屋敷と呼んだが、その急な移転騒動が、時あたかも九州島原の乱の直後であったため、それになぞらえて島原と称されるようになった。
島原の傾城(遊郭のもてなしを公認された女性)の最高位である太夫の名称は、慶長年間、四条河原で六条三筋町の傾城が女歌舞伎を催したとき、優れた傾城を「太夫」と呼んだことが始まりとされている。太夫道中は置屋から揚屋へ練り歩く様子をいう。
また、江戸時代の島原は単に遊郭にとどまらず詩歌連俳等の文芸が盛んで、中でも俳諧は島原俳壇が形成されるほど活況を呈していた。
ということで、名前は京都自身にはあまり由縁がない「島原」です。「島原」には「西門」もありました。塀で周りを囲われていて「門」を通って中に入るという隔離された町でした。
「天水(桶)」ですね、石でできてますけど。昔の防火用水です。雨水をためてました。嘉永7年(1854年)には島原の東半分が消失する大火があり、この「大門」は慶応3年(1867年)に建て替えられたものです。
なんか、木が植えられていたのでしょうけど、バッサリと切られてしまってますね。これ、もしかして「見返り柳」なのでしょうかね。もったいない。
ということで、江戸時代の島原は他の遊郭とは違って、詩歌連俳等の文芸が盛んであったとのこと。当時の文化の中心となっていたのでしょう。そういうところが京都らしいですね。
「大門」以外にも、当時の建物が残ってます。新選組関連の史跡もありますので、一度、島原界隈を歩いてみてください。
アクセス
- 京都市バス「梅小路公園・JR梅小路京都西駅前」下車、徒歩13分