ききょう寺
NHKの大河ドラマ「麒麟がくる」には多分登場しないであろうと思われるのですが、「光秀公」の首塚がある京都府亀岡市の「谷性寺(こくしょうじ)」を訪ねました。山号は「清瀧山((せいりょうざん)」です。
実は、谷性寺の訪問が主ではなく「ききょうの里」のききょう撮影が主だったので、光秀公には悪いのですが、ついでの訪問となってます。というのも、秋に行われるききょうの里の「丹波かめおか夢ナリエ」で夜間のライトアップ時には訪れたことがあるので、大体の雰囲気は知っていたんですよ。でも、昼間には来たことがなかったので、訪問してみました。
ききょうの里で写真をたっぷりとった後、お隣の谷性寺に足を運びます。
「ききょうの里」のすぐお隣です。
「麒麟がくる」のおかげで、地元は期待感いっぱいです。
谷性寺のご由緒書きです。平安時代の創建らしいのですが、創刊にまつわる細かいご由緒は書かれていませんね。
「近畿楽寿観音霊場第二十五番札所」と石碑が立っています。いろんな霊場巡りがありますね。
本堂につながる階段です。
「谷性寺」の石碑です。
では階段を上がって境内に入りましょう。
山門はこじんまりとしています。戸板は新しくしつらえたようでヒノキのいい匂いがしています。
山門に木札があるのですが、ちょっとよく見えません。
山門からすぐに本堂です。
お寺というよりは、田舎の民家という感じの本堂ですね。
「光秀公首塚」と「明智山門」の案内札。
手水鉢があります。
境内の角にある鐘楼。「幸せを呼ぶ鐘」だそうです。
境内にもききょうが咲いています。
本堂です。光秀公のききょうの家紋が描かれていますね。
ちょっとユーモラスな仁王像。
本堂では「明智光秀展」をやっているのだそうですけど、今の時間は本堂で法事が執り行われているので拝見することができませんでした。ちょっと残念です。ガラス越しに見てるだけでも何か楽しそうな雰囲気が伝わるんですけどね。
それと、本堂にはご本尊の「不動明王像」が安置されていますが、光秀公はこの「不動明王像」を崇敬していたそうです。本能寺の変を前にして光秀公は当寺に参り、不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授け給え」と誓願して、本懐を成し遂げました。ぜひとも「不動明王像」を拝観したかったのですけど、法事なので仕方ないですね。またの機会にしましょう。
こちらが、明智光秀公の首塚です。
天正10年(1582年)、「本能寺の変」で「織田信長」を打ち取った明智光秀公ですが、「山崎の合戦」で中国地方平定に行っていた「羽柴秀吉(豊臣秀吉)」に敗れ、長岡京市の「勝竜寺城」から大津市の「坂本城」に向かう途中、京都市伏見区の「小栗栖(おぐりす)」で落ち武者狩りの土民の襲撃によって深い傷を負ってしまいます。光秀は観念して自刃、介錯した「溝尾庄兵衛」の近臣が光秀公ゆかりの当寺にその首を埋葬したそうです。長い間、小さな石碑だけだったのですが、江戸時代、安政元年(1855年)、この首塚が建立されたそうです。
実は、「光秀公の首塚」は京都市東山区の白川沿いにもあります。どちらが本物?なんて野暮なことは言いません。(気になるけど...)
境内に鎮守社がありますが、なんの神様かわかりません。しかし、迫力の鳥居ですね。境内で「朱」はここだけなのでとっても目立ちます。
あまり広くないのですが、お庭は雨の時期らしく、みずみずしい草木が多いです。
お庭の池のそばにもお不動さんがあります。
水盤の中は梅雨らしい光景になってます。
向こうに、「楽寿観音像」が見えます。
境内の東には「明智山門」があります。
この山門は亀岡市柳町にあった「西願寺」にあった山門で、「明智門」と伝わる山門だったそうです。「西願寺」が荒廃して山門と土塀だけが残ったのですが、昭和51年に、ここに移築したそうです。
「明智山門」についての由緒書きがあります。
光秀公顕彰の七重の石塔です。
雨で足元が悪く、「楽寿観音像」の近くに行けませんので、ちょっと離れて撮影。
観音様の視線の先には多くの石像や無縁仏となった墓石などが安置されています。
表面が風化して、何であったかわからないような石柱があります。真ん中、下のは道祖神かな。
梅雨という季節は じめじめしているので、みなさん嫌いなのでしょうけど、緑がきれいなので雨の合間などに写真を撮ると日ごろとは変わった絵ができます。
さて、ゆっくりと拝観させていただきました。
駐車場のハスの花。
極楽浄土を思わせるハスの花はいつみてもきれいです。
ご本尊が拝観できなかったのが心残りですが、雨の合間に光秀公の塚にもお詣りできました。近くには丹波攻略のときに光秀公が攻め落とした「井内城跡」もあります。のんびりとした田舎が楽しめますので、ぜひとも「谷性寺」訪ねてみてください。
アクセス
- 京都縦貫道「亀岡IC」より、車で約20分