菅家ゆかりの神社
以前、「上賀茂」を回った時に訪れた「總神社」を紹介します。「上賀茂神社境外三十八社」の一つです。
「總神社」は「紫竹(しちく)」にある神社でです。Webで色々と調べてみたのですが、創建、変遷などの詳細は不明なのだそうです。神社には飛鳥時代の「白鳳年間(672年~687年)」に創建されたと伝わります。賀茂御読経所「聖神寺」の鎮守社として、社僧が学問向上を願い崇敬したそうです。「聖神寺」は現在の「上賀茂神社」の市バスの時間待ちの停車場所辺りにありました。現在は直線距離で1㎞以上ありますね。変遷が分からないので、なぜここまで距離が離れたのか謎です。
とりあえず行ってみましょうか。
私は「上賀茂」を回った後だったので北の方から南下して歩いてきました。
途中で見つけた石票。昔からの、この形の石票が残っているところがあるんですけど、なんなんですかね、これは。上の方に穴が開いてるので棒でも通すようになっていたのでしょうか。表面には「貯蓄報國」とあるので、戦前、戦中の石碑なんでしょうね。左面には「本牛若町」とあります。
さて、この通りはなんという名前なのか知らないのですが、「大宮通り」の一本西側の通りです。旧大宮通りかな。隣の大宮通りは直線で真っ直ぐ南北に走っているのですが、この通りはゆっくりと左右に蛇行しながら南に向かっています。昔は川筋だったのでしょうかねぇ。
さてさて、そろそろ「總神社」が見えてきてもいいんですけど...
おお、やっと到着です。
入り口にある「總神社天満宮」の石碑です。
ご由緒書きがありますね。
總神社は山城国一之宮賀茂別雷神社三十八社の一つであります。賀茂御読経所聖神寺の鎮守社として社僧の崇敬した神社であります。創祀年代はあきらかではありませんが、社僧の始まりは白鳳年間と伝えられていますので、その時代と考えられます。当社の森が「菅宿の森」と呼ばれたのは菅原道真公が筑紫に流刑される際、当社の宮守であった叔母を訪れ、別離の情を述べ、遂に一宿されたという故事に依りると伝えられています。
紫竹地区は古来源氏とゆかり深い土地であり、源義朝の別邸があったとされています。源義朝の妾、常盤御前が牛若丸(義経)を此地にて出産したと伝えられています。、古図に「常盤の森」と記入されております。
「菅原家 日本最古学問所」と書かれていますね。一般的に鎌倉時代以後においては学問教授の場所をさしますが、それまでの時代では個人所有の書斎や書庫の意味で用いられていました。詳細は書かれていませんので良くわかりませんが、「日本最古」とありますので、教育の場としての走りだったのでしょうか。
通りと通りの角にあります。玉垣の上に屋根があるんですよね。
石の玉垣がずっと続いています。
では、一番最初に見つけた入り口から入りましょう。
奥の方に手水舎や拝殿が見えています。
境内は比較的広いです。拝殿や本殿は、一段高い場所位になっています。
広い境内に対して、奥の方は建物がいっぱいあって凝縮した感じがします。
拝殿に近づいてきました。
手水舎です。竹で囲いがしてありますが...
後で見ようと思っていて、結局忘れていました。誰かの歌碑でしょうか。
拝殿です。端正な造りです。
「總神社」の神額です。
菅家が宮守を務めていたので梅の御紋が見えます。「總神社天満宮」とか「菅宿坊天神」とか呼ばれます。ご由緒書きにもありましたが「菅原道真公」が九州の大宰府に左遷されるとき、当社に巫女として奉仕していた叔母に別れを告げるために訪れて、ここで一泊していったということです。
瓦にも。梅鉢の御門。
拝殿でお詣りです。
格子の隙間から除くと...
本殿が見えています。ご祭神は、「天穂日命(あめのひのみこと:天照大神の御子)、「八幡大神(はちまんおおかみ)」、「源義朝神霊(みなもとよしとものみたま)」、「天満大神(てんまおおかみ:菅原道真公)」が祀られています。御霊社ですね。
本殿の中のご神鏡も見えますね。
本殿の右手(北側)にある摂社です。
正面に回ると「厳嶋社」と神額があります。
手前には「紫竹瓣財天社」と石碑が立っています。
裏側(西側)に出てみました。
外に出てみると、古い家並みが残っています。「紫竹」と呼ばれるこの辺りには、平安時代末の武将「源義朝」の別邸があり、「義朝」の愛妾であった「常磐御前」はこの地で「牛若丸(源義経)」を産んだと伝わります。近くに、牛若丸にまつわる「牛若丸誕生井」「源義経産湯井」「胞衣塚」などの遺跡も残っています。
振り返って。裏側の入り口から境内の方を見ます。この神社の昔の面影はこんな感じなのでしょうね。
裏の入り口から見た「紫竹瓣財天社」と本殿(画像右)です。夏に来ると、木陰が涼しいのではないかと思わせる風景です。
そういえば、入り口近くに駒札があったので行ってみます。上の画像の茂みの辺りです。
「恋文の樹(多羅の木)」と駒札があります。
当社の御祭神の一柱は菅原道真公で学問上達の神様であります。
昔は紙が非常に高価で貴重品でしたので、この多羅の木の葉の裏に文字を書いて手紙としたとされてをります。若者たちの恋文にもこの葉が使用されと思えば、なんと風流な事と思います。總神社
この木の葉っぱですね。恋文を認(したた)めていたのだとしたら、とってもロマンチックですね。
大路から離れた静かな住宅街にある神社です。平安時代などはもっと閑静な場所であったことでしょう。京都の中心からは離れていますが、紫竹にはいろいろな時代の史跡、旧跡や神社仏閣があるので、一度訪れてみてください。
アクセス
- 京都市バス「紫野上野町」下車、徒歩5分
コメント
總神社の散策記、懐かしく拝見しました。神社の裏入り口のすぐ近くで生まれ育ち、昭和30年代から40年代にかけて、この近辺の小中高を卒業しました。
總神社の境内は子供時代の遊び場で、隅々まで憶えています。ただし当時は「ご由緒書き」など無く、祭神も天神さん程度しか知らなかった。牛若丸産湯ノ井戸の石碑は実家の通りにあったのでよく知ってましたが、總神社と源義朝の関係はまったく存じませんでした。そのあたりは後年に興味を持ち調べてみて、次のようなブログを書きました。 https://naniuji.hatenablog.com/entry/20160228
上記とは関連しませんが、「貯蓄報國」と刻まれた石票に注目されたのには驚いた。あの横の細い道は、われわれ子供たちが「横手」と呼んで、車も通らないので恰好の遊び場にしてました。貯蓄報國の意味など知るわけもなく、上に昇ったりして遊んだ記憶があります。
佐々木信雄さん、はじめまして。
私のつたない記事にコメントいただきありがとうございます。
また、私用が重なりお返事大変遅くなって申し訳ございません。
私も幼少のみぎりには神社の横に付属していた公園で、日が暮れるまで友達たちと遊んだ世代です。
親からは「神さんがいはる所やから、バチ当たりなことしたらあかんで!」と言われて、ふ~ん、ぐらいにしか思いませんでした。
今、この歳になって先人の神に対する崇敬の気持ちが少し理解できて来ているような気がして神社や仏閣を巡っています。
そういう目で見ると、京都市内って本当にたくさんの神社仏閣があり、巡るのが楽しいですね。
これからも細々とでも記事を書きますので、どうぞよろしくお願いいたします。
Jun@Kyoto