石碑は押さえておきましょう...せっかく来たので
前回、光秀公が築城した「坂本城」に関して「坂本城址公園」を紹介しましたが、今回は城域にある石碑の方に行きましょう。
石碑だけなので「遺構」はないのですが、坂本城跡を明確に表している石票なので、話のタネに行ってみたいと思います。
場所はGoogleMapで調べたのですが、今日現在、GoogleMapでの指示地点は間違っています。実際行ってみると民家が建っているだけです。石票はGoogleMapの指示場所よりも、60mほど東側の四つ辻にあります。
私は県道558号線(旧国道161号線:高島大津線)のすき屋に横から入ってきました。
道なりに歩いていると、四つ辻の角にでっかいから傘が目に入ります。石の長椅子があって休憩場所になっているんですね。上の画像で横切っている道(西近江路:北国街道)が、かつての「坂本城」の中堀に当たる部分です。
そこに「坂本城址」の石碑があります。
四つ辻の方から見ると、こんなです。
「坂本城址」石碑の後ろにある銘板です。
表側にも案内書きがあるんですけど...
こちらの方が詳しいですね。
坂本城跡 (大津市下阪本三丁目)
元亀二年(一五七一)九月の山門(比叡山延暦寺)焼き討ちの後、織田信長は明智光秀に滋賀郡支配を命じるとともに、浜坂本(三津浜)に水城を築かせました。日本最古級の天主がそびえていた坂本城について、当時来日していたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは、天正四年(一五七六)に築城された信長の安土城に次いで豪壮華麗な白と賞賛しています。
s鴨途上築城の目的は、山門の監視ばかりでなく、彦根の佐和山城とともに、信長の領国美濃と京都とのルートの確保、水運の重要な拠点などがあげられます。
この城は、天正十年六月の山崎の合戦ののち焼失しますが、丹波長秀によって再建され、同十四年頃、城主浅野長吉のときに大津城に移るまでこの地にありました。
昭和五十余年(一九七九)の「字城畔」の発掘調査では、厚い焼土や城の施設の一部とみられる建物の礎石や石組の井戸・土坑・溝・石垣の基礎石などが見つかっています。大津市教育委員会
平成二十七年(二○一五)八月
その後、天正14年頃に秀吉の命で「大津城」が築城されることとなり、「坂本城」は取り壊され、その資材が「大津城」に利用されました。その「大津城」も関ヶ原の戦いの後取り壊され「膳所城」や「彦根城」の築城に使われたそうです。リサイクルする方が手っ取り早いんでしょうね。
光秀公は城づくりに関しては相当な手腕を発揮した人ですので、城が残っていたら「麒麟がくる」でももっと盛り上がったでしょうに。残念です。
アクセス
- 京阪石山坂本線「松ノ馬場駅」下車、徒歩15分