超マイナー
ここしばらく仕事が忙しくて、ゆっくりとBlog書いてる時間がありません。年度末が近付いているのと、新型コロナウィルス騒動のおかげでバタバタとしてます。
で、今日はまさに「ガイドブックに載ってない」ところを紹介しましょう。今日紹介するのは「本間精一郎遭難之地」と刻まれた石票です。
「本間精一郎」って、知ってますか?
普通は知りませんよね。知ってる方はよっぽど歴史に詳しいか、幕末大好き人、もしくは惨殺とか人斬りマニアの人でしょう。「幕末の四大人斬り」と言われた「岡田以蔵」や「田中新兵衛」に斬られて死んでます。
「本間精一郎」は幕末物や新選組物にも登場しないほぼ無名な人なのですが、早くから江戸や京で学び、尊王攘夷の思想に目覚め薩摩や土佐に倒幕を説いた人です。
彼は裕福な家の出であって、利発で勝気な気性で論争に強く、自己の実績を過大に喧伝していたため、薩摩や土佐の貧しい出の浪士たちや、彼の存在を疎ましく思う同志が殺害を企てます。彼はその計画にまんまとはまり、しこたま酒を飲まされてから、同志の凶刃に掛かることとなってしまいます。
では事件現場に行ってみましょうか。
「四条通り」から「西木屋町通り」を上がってくると、ほっそいほっそい道になって、すぐに元の広さに戻るんですが、どんどん歩いているとそのうち突き当りになります。
突き当りで右手を見ると「高瀬川」に架かっているのが「紙屋橋」です。この通りは「八之舟入通り」という道です。
「高瀬川」は今日も静かに流れています。
橋を渡ったほぼ正面が今回の目的地「本間精一郎遭難之地」です。上の画像で石票が分かるでしょうか。こそっと隠れて立っています。
これです。
「本間精一郎」って、あまり知られていない人なのですけど、立派な石票が立っているんですね。精一郎はこの地で襲われた後、一本南の路地に入って木屋町の方(東)に逃げようとしたのですが、そちらの方にももうすでに刺客が待っており精一郎は挟み撃ちにされて息絶えたそうです。その時の刀傷が民家の出格子に残っているそうですが、私有地で勝手には入れないところです。
江戸時代の暗殺といえば、「芹沢鴨」にしても「伊東甲子太郎」にしても、酒の接待で酔わせてから多人数で襲って討ち取るというなんともアンフェアなやり方が多いですが、当時としてはこんなもんなんでしょうか。
「本間精一郎」は惨殺された後、晒し首になって鴨川の河原にさらされたそうで、Webで「本間精一郎」を検索すると、晒し首の絵がヒットします。「本間精一郎」には悪いのですが、世間を渡るということは、出る杭は打たれるではないですが、世の中の情勢をよく見ながら行動しないと命取りになるという良いエピソードではないでしょうか。明治政府は、尊王攘夷の思想を広めたということで、彼に従五位の官位を贈っています。でも、命を落としてしまい、せっかくの新しい時代に活躍できずに終わってしまったのですからもったいないことです。
アクセス
- 京都市バス「四条河原町」下車、徒歩10分