城下町あれこれ
今回も伏見です。伏見桃山城近辺の旧跡を紹介します。
題して「伏見桃山城 二つの黒田!」
なんのこっちゃ?
1つ目の黒田
さて、先日、「京都一周トレイル」の 「東山コース 伏見・深草ルート」を歩きました。ここは、後から取ってつけたコースで、標識も「東山F1~F35」と「F」がついています。(他の東山コースは 東山1~74)
んでもって、あんまり地道というか山道がありません。トレイルだから山道を歩かないといけないということは何のでしょうけど、山好きにすると少し物足りない感じがします。
でも、コース周辺には観光できるマイナーな史跡や旧跡、神社仏閣がこれでもかというほどあり、ゆっくり見ているとなんぼ時間があっても足りなくなってしまうくらいです。桃山から北方向に歩いて、大文字まで歩こうと思ってたのですが、大手筋の近辺で1時間ぐらい、途中の道々で1時間ぐらいのロスがあり、仕方なく鳥羽街道で終了となってしまいました。
そんな中から、桃山城近辺の旧跡を紹介します。
大手筋の商店街は「京阪電車」の「伏見桃山駅」、「近鉄京都線」の「桃山御陵前駅」があり、けっこうな賑わいを見せるところです。このあたりは、当然桃山城の城下町であり、幕末は伏見奉行所が置かれたところなので、明治頃までの史跡がたくさんあります。
「おけいはん」の京阪電車。地上を走ってます。当然通るたびに踏切が遮断されます。
こっちは「近鉄京都線」。高架になってるので乗り降りは大変ですが、渋滞にはなりませんね。今回、私は近鉄で京都駅からやって来ました。
近鉄の「桃山御陵前駅」のギャラリーにあったガラス細工(?)の伏見桃山城。
で、駅を出て東に向かうと、昨日紹介した「御香宮神社」の大鳥居に出くわします。もう少し歩くと「御香宮神社」の前に出て塀が続くのですが、その前で発見した「第1の黒田」です。
「『黒田節』誕生の地」という駒札。
へ? なんで黒田節? 福岡とちがうんけ?
と思うんですけど、黒田節のもととなった「事件」が起こったのがこの地。
駒札によると...
「黒田節」は「酒は飲め飲め飲むならば 日の本一のこの槍を 飲みとる程に飲むならば これぞまことの黒田武士」の歌詞が特に有名な福岡県の民謡で、酒席には欠かせぬ名歌である。
この歌詞は、福岡藩の儒学者、貝原益軒が著した「黒田家臣伝」の母里(もり)但馬伝にも登場する逸話が元になっている。
伏見城の桃山の地にあった戦国大名・福島正則の屋敷での酒宴に、黒田家の家臣・母里太兵衛(もりたへえ)が招かれた時のこと。正則は大きな鉢を杯に見立て、「これで酒を」と勧めたところ、余りの大きさに太兵衛は断った。しかし飲めば望みの品を与えると強いたため、太兵衛は座上に架かった槍を見て、「あれをいただけるなら」と答えた。
その槍は正則が豊臣秀吉から賜った秘蔵の品。正則は酔った勢いで承知したところ、太兵衛は大杯に注がれた酒を見事のみ干し、槍を持ち帰った。後悔した正則は、返して欲しいと何度も使いを出したが、太兵衛はついに返さなかったという。
この名槍「日本号」は、別名「呑み取りの槍」と言われ、現在も福岡市博物館に収められている。
とのことで、この辺りに「福島正則」の屋敷であったようです。
私は下戸で全然お酒が飲めません。すぐに頭が痛くなって気分が悪くなります。お酒が飲める人がうらやましいですが、お酒よりも甘いものが好きなので、不二家のネクターとかなら何ぼでも飲む自信があります。(糖尿病ではない。)
2つ目の黒田
今度は「京都一周トレイル」で伏見桃山城を越してからの旧跡です。
「伏見桃山城」の北側に「伏見北堀公園」という東西に細長い公園があります。取り立てて何があるというわけではないのですが、真ん中に小川が流れている自然豊かな公園です。
河岸段丘のようになっていて、斜面を利用した滑り台があったりします。
その他は自然が豊かなので、野鳥が良く見られるぐらいですかね。
西の端の方から、東の端まで歩いて、最後はぐるっと半周しながら坂を上がり、一般公道に出ることになります。
「京都一周トレイル」では、分岐で方向を変えるところには、たいてい標識が立っているのでそうそう道を間違うことはありません。
ここにもありました。標識では半円を描いて歩いてきましたので、矢印の「大岩山」の方に向かいます。現在地で「右折」ですね。
あっちの方向です。
曲がると、また正面に「京都一周トレイル」の「標識が。
横になんか立ってますね。でも、まずは行く方向を確認。
現在地では、また右折して「大岩山」に向かいます。
で、はて、これは何じゃ? としげしげと眺めてみると...
「伏見城武家地黒田長政下屋敷跡参考地」とあります。さっきあった「黒田節誕生の地」に出てくる「黒田長政」の下屋敷があったであろう場所ですね。あくまでも「参考地」なので、もしかしたら後世違っていたということになるかもしれませんが。
説明書きの文章、ちょっと長いですが載せておきます。
伏見城武家地黒田長政下屋敷跡参考地
ここ伏見区深草大亀谷敦賀町(旧 山城国紀伊郡大亀谷村のうち)は、豊臣期から徳川初期まで存在した、伏見城(木幡)北堀の東端そばです。神戸市立博物館蔵の伏見城下町絵図は、この地に「黒田甲斐守」、すなわち黒田官兵衛(孝高、如水)の後継者、長政の屋敷のひとつがあったと伝えています。
豊臣秀吉は、伏見城のそばに全国の大名の屋敷を営ませました。近年の研究によれば、大名とその妻子は帰国を許されず、常住を義務付けられました。伏見城を引き継いだ徳川家康、後継者の二代秀忠、三代家光は、いずれも当城で征夷大将軍の宣下を受けています。いわば伏見は、武蔵江戸に先立つ「武家国家の首都」だったのです。
当地近くの桃山紅雪町では、一九七七年の土地区画整理事業にともない、北西から南東方向に延長100メートル以上の石垣列が見つかっています。東方よりの敵から城郭・城下町を防衛する外郭ライン(惣構)の遺構だと考えられます。(現在その約15メートル分が市立桃山東小学校に移築。市登録史蹟)。そのような場所近くに黒田長政の屋敷跡が伝承されることは興味深いことです。
黒田官兵衛は伏見で亡くなったという伝承があります(『寛政重修諸家譜』など)が、事実かどうか明らかではありません。かりに事実であったとしても、当地に長政や父官兵衛が居住したかどうかは分かりません。
比較的信用できる史料によると、豊臣「五大老」である徳川家康や前田利家、毛利輝元らの上屋敷(居住地)は、大手門に通ずる大手筋と、宇治川に架かる数少ない橋、豊後橋(現観月橋)に通ずる豊後橋通の交点(現「御香宮前」交差点)付近に存在していたといえます。この近辺には山内一豊や伊達政宗、佐竹義宣らの邸宅もあったといえることから、黒田父子の居所も当然この付近にあったと考えるのが自然です。
これに対して、前田や毛利、そして同じく「五大老」の上杉景勝らの下屋敷が、城下町外郭(惣構)付近に存在していたことを思い起こすと、当敦賀町の屋敷も下屋敷である可能性が指摘できます。居所ではなかったかもしれませんが、当地も何らかの形で黒田父子が出入していたかもしれません。
伏見が豊臣期から徳川初期の天下人の最重要地であることを示すために、黒田官兵衛・長政父子の由緒参考地に建碑し、顕彰いたします。【主な参考文献】日本史研究会編『豊臣秀吉と京都』、文理閣、二〇〇一年 二〇一四年(平成二六)八月 歴史地理史学者 中村武生
とっても新しい石票です。「五大老」等屋敷跡というのもあるようですね。行ってみたいですけど、ロスタイムがとてつもなく超過していて、これ以上道草食ってるわけにも行きません。
で、参考地なんですけど、住宅の分譲地になってますね。この辺りは「大亀谷(おおがめだに)」と言われるところで、昔はな~んにも無いところでした。古くは「狼谷(おほかめだに)」だったそうですが、後に縁起のいい「大亀谷」になったそうです。
「旧 山城國紀伊郡大亀谷村」と刻まれています。
この道はここが峠の頂上になっていますが「墨染通り」といって、名神の京都南インターや竹田の方から六地蔵に抜ける抜け道なのでけっこうな交通量があります。昔からの道でとっても細いので、歩行者にとっては鬼門です。
昔、桃山城が栄えたころは、武家屋敷が多くあったところです。丘陵の上なので見晴らしがよく、当時としてはよい場所だったんでしょうね。
ということで、「伏見桃山城」の近辺にある2つの黒田でした。
アクセス
【黒田節誕生地】
【黒田長政下屋敷跡参考地】